カテゴリ:香樹院語録を読む( 138 )

三種の慈悲

  一九一、慈悲に三種あり。
  小悲、中悲、大悲これ也。

  小悲と云うは凡夫の慈悲にして、
  親子、兄弟、六親眷属のものにはなさけをすれども、
  他人が如何ほど難儀しても救いやる心なき故、
  これを衆生縁の慈悲と云う。

  中悲と云うは、声聞、縁覚、菩薩の三乗の慈悲なり。
  これは我れに法の因縁あるものには慈悲をなせども、
  一切衆生のためになし給わぬ故、
  これを法縁の慈悲と云う。

  大悲と云うは仏の慈悲なり。
  怨、親、中の三を離れて一切衆生に慈悲を施し給う。

  (香樹院語録) 


 竹内先生から一番最初に教えていただいたのは「仏とは智慧を与えて救うという救いの働きです」という仏の定義でした。救うのは仏、われらは救われるだけの身です。だから、親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきり教えてくださっています。では、なにから「救われる」かといえば「自分の心」から救われる。どんな状態を「救われる」というのかというと、自分の心を離れて、自分の心の影響を受けない。これを「救われる」という。

 救われなくては救われるということがどういうことかはわからない。つまり、救わんとした仏のお心がわからない。「仏とは智慧を与えて救うという救いの働きです」から、仏は自分の心が見えるように智慧を回向してくださいます。だから、自分の心が見えたら、それが仏に救っていただいたということです。われらはどこまでも「救われる身」であって、決して「救う身」ではない。これを親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきり教えてくださったのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-12 06:31 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  三五、五人七人の子を持ったる親が、
  その子がみな首の落ちるような悪事をしたを、
  並べて眺めている親の心はどう云うものであろう。
  ただ涙こぼして、見るより外はあるまい。
  在家も出家も、男子も女人も、
  彼尊の御膝元にならべて、天眼の御まなこより、
  御眺めあらせらるるのに、
  首一つ斬らるる位のことではない。

  無量劫の永の間、又再び人間に生れ出させて、
  爰までに育てるは、並大抵の御骨折ではない。
  それをば是れも無間の罪人じゃ、あれも無間の罪人じゃと、
  御眺めあらせらるる御慈悲の思召は、どのようであろう。
  それを思えば、我身は勿論のこと、我妻も子も、
  同じ御前に並ぶ彼尊の子じゃと思わば、
  たとい親は子にあやまり、夫は妻にあやまりてなりとも、
  この御法を聞かせ、御法義相続せねばならぬ。

  (香樹院語録)

 無量劫の過去よりの悪業の蓄積としてのこの身をいただいて、ここに、わたしの現在がある。わたしの親も、わたしの妻も、わたしの子らも、みな「無間の罪人」としての過去がある。この世で一時の縁を結んだがいずれ解ける縁である。親鸞は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」(歎異抄・第5章)と言ったが、一切の有情は仏に救われるのであり、わが子であろうと、わが妻、わが親であろうと、今生ですれ違ったが、わたしが救うのではない。いずれも仏の救いを待つ身である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-09 06:42 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

解脱の耳をすまして聞く

  八四、聞くと云うに二あり。
  一には、無名無実に聞く。唯おおように聞く。名聞人並に聞く。
  二には、解脱の耳をすまして聞く。

  (香樹院語録)

 「聞く」とは自分の意見を持たない。心の器を空っぽにして、一言も聞きもらすまいぞと覚悟を決めて、言葉の奥にある善知識の本意に鋭く迫る。聞くうちに、やがて心が空っぽになる。なにを聞いているのか。なにが聞きたかったのか。なにもわからなくなる。空っぽになった心に仏心が入ってくださる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-08 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  一六九、江州湖北の某寺にて御法話の節、
  一人の老媼、一座をさし出でて高慢顔に自得のままを述ぶ。
  師きびしく呵して曰はく、顔見るも厭やじゃ、 と。
  老媼恐れ入りながらも渋き顔して退出せんとす。
  師再び呼び返して仰せらるるよう、
  汝よく聞け。己ればかりが嫌うでないぞ。
  十方の諸仏も菩薩も、皆な忌み嫌い給うが驕慢心じゃ。
  其のあらゆる仏菩薩に忌み捨てられたるものを殊に憐れと思召して、
  我慢の和ぐように照らして下さるのが、弥陀の光明じゃ程に、と。
  老媼、感涙して改悔せりと。

  (香樹院語録)  

 この法語には「光觸れんもの身心柔軟ならん」と題がついている。光とは智慧、智慧は自分の心が見える。浅ましくも醜い心、よくぞ、恥ずかしくもなくこんな心を隠して生きてきたものぞと驚き入る。自分を知らないから偉そうにしていられたが、ありのままの自分を見せていただいたら頭の上げようがない。驕慢の角を折って素直な心を与えようというのが「触光柔軟の願」です。


すなわち、智慧が生じて「思い」が見えれば、思いに縛られて「思い通り」にしたい貪欲が和らぐ。貪欲が和らげば「思い通り」にならない瞋恚(怒り)が和らぐ。怒りが心を固くするから怒りの少ない心は明るく軽く柔らかになる。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-07 06:22 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

ただ仰ぐばかりなり

  一二一、摂取して捨てぬとある大悲の実が聞こえて見れば、
  助かりたいがいらず、堕ちまいがいらず、
  なろうがいらず、仕あげることがいらず、
  ただ実言のはたらきを仰ぐばかり也。

  (香樹院語録)

 これは信心をいただいた心境を述べている。仏のお心の中に生まれてみれば、自分の心が見える。見えるとは離れている。離れるとは執着が切れている。自分の心に執着がないから自分の心がどんな状態であろうと構わない。心は色んなことを思いにしてわたしを動かそうとするが、仏にお任せした身は「助かりたいがいらず、堕ちまいがいらず、なろうがいらず、仕あげることがいらず」。心を相手にしない。放っておけば仏がよいようにしてくれる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-05 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

讃仰

  一〇二、百千倶胝の劫をえて、百千倶胝の舌をいだし、
  舌ごと無量の声をして、弥陀をほめんに猶つきじ。
  この『和讃』の御こころを仰せらるるときは、
  いつもいつも、身を揺り動かし、
  立ちあがるようにして、仰せられけると。

  (香樹院語録)

 仏は色も形もない。五感で認識するわれらは五感で捉えられないものは認識できない。 存在しないことになっている。仏を語る善知識は仏を知っているのである。色も形もない仏をどうやって知ったか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-04 06:11 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

常照我身

  五三、此の弥陀が守って居る程に、疑うなよ疑うなよ、
  十方諸仏の御請け合、天が地になっても、
  念仏行者が浄土に参らぬと云うことなしとの仰せなり。

  (香樹院語録)

 この法語は「常照我身」と題がついている。「わが身を照らす」とは、わが身が見える。無量劫より積みし悪業の蓄積の結果としての「宿業」が見える。見えることが「智慧」です。煩悩の眼には見えない宿業を仏が見えるようにしてくださった。見えることが救い、見えるようにして救うのが仏のお慈悲です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-03 06:05 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

鎮西の風下

  四一、見臺たたいて講釈する大学者でも、
  名高い道心堅固の念仏者でも、
  大概鎮西の風下に居ると仰せられき。

  (香樹院語録)

 自力とは自分の心、他力とは仏の心。自力の人は心と言えば自分の心しか知らない。仏の心は知らないから、知らないことを信じるのが信仰だと思う。人間に知らないことを信ずる能力などあるだろうか。経験したこともない仏を信じ、経験したこともない浄土に生まれさせてもらうのだという。宗教以外の分野なら変わった人だと思われるに違いない。

 他力の人は仏の心を経験する。経験すると智慧が生ずる。智慧は心が見えるという証拠があるので、具体的に、仏の心を説明することができる。経験したことを説明するのに難しい学問はいらない。三歳の子供でもできる。仏の心は一つであるから経験した者同士はその経験が本当かどうかがわかる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-02 06:24 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏とうしろ合せの生活

  七二、江戸のさる同行、
  一人の巡拝者を止宿せしめたるに
  仏檀の方へ足を投げ出して寝て居るを見て、
  ああ、私が昔のさまを見せて下さることとて喜ばれしを、
  師聞き給いて、おれはかえさまなり。
  おれは現在仏に足をなげ出し、
  仏とうしろ合せの日暮しをして居る。
  と仰せありき。
  先の人之を聞きて驚き入り、
  私が今まで仏と差向い気どり、
  うぬぼれの心の誤りを御知らせ下さるるは、
  香樹院さまならではと、
  慚ぢ入りて深く喜ばれける。  

  (香樹院語録) 
 

 われらは救われるだけの身である。なにか行いが立派で救われたわけではない。一方的に、なにもせずに救っていただいただけであるから、いつだって、ありのままでいて、なにも不都合はない。そもそも仏さまに不都合などない。「おれは現在仏に足をなげ出し、仏とうしろ合せの日暮しをして居る」。仏はわが実家、なんの気兼ねもいらない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-01 06:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

挟まれている身

  四〇、「無始流転の苦をすてて、無上涅槃を期すること」。
  この『和讃』初の句は御助けありたることの有難さ、
  第二句は御助けあろうずることの難有さ。
  第一句は過去に向うての喜び、
  第二句は未来当果に向うての喜びなり。
  よくよく思えば、過去に向うての喜びと、
  未来に向うての喜びとは、
  はさまれて居る身と聴聞すれば、
  いよいよ難有き事也。

  今この二句の意、
  第一句にかたよれば邪見に流るる恐れあり。
  第二句にかたよれば機なげきに陥る過あり。
  よくよく考うべき也。

  (香樹院語録)

 竹内先生は会座でよく使っておられたが、「機なげき」という言葉は他ではまったく聞かない。自分の罪の深さを嘆くのであるが一向に懺悔にならないのは信心の智慧がないからです。智慧とは如来回向ですから仏の方から自分が見える。宿業の身、救われない姿を見せていただく。それは紛れもないわが身の事実、鏡に映ったありのままの現実だから否定しようがない。

 ありのままの自分を見せていただいてこそ救われる。なぜか、自分は誰かがわかったから。では、自分は誰か。煩悩具足の凡夫という古着をまとった未来仏である。無量劫よりの悪業の蓄積でできた身をもって生まれてきたのは仏になるためである。それがわかって救われた。過去は罪悪深重の凡夫、未来は仏。この間に挟まれた現在は、身は凡夫、心は仏。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-30 06:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)