カテゴリ:香樹院語録を読む( 161 )

不動の動、不行の行

  九二、「汲水則疑山動、揚帆則覚岸移」。
  谷川の流には万峰の影落ちて、其の潭水を汲もうとすれば、
  山の影が皆動いて見ゆる故、山が動くのかと思えば、
  其の実山の動くではなくて、水の動くのじゃ。

  又帆を揚げて航ぎ行く船に乗れば、岸が移るようなれども、
  岸の移るではない、舟の動くのじゃ。

  いま我々が、妄念悪業の水の動くときは、
  是れでは如何あるらんと、疑いの心を起すものもあらうが、
  たとい妄念悪業が起ればとて、摂取不捨の御約束の山は動きはせぬ。

  また南無阿弥陀仏の帆を揚げて、御慈悲を喜ぶのは、
  我が心の岸の移るようなれども、我が心で働くのではない。
  大悲仏智の御本願の舟の働きじゃ。
  じゃから、生涯念ずれども、自の行を行ずるのではない。

  (香樹院語録) 

 「山」は摂取不捨の仏心、「水」は妄念悪業の人心の譬え。仏心は人心を映す鏡である。鏡は映すものを選ばず、映すものに影響されず、ありのままに映す。仏心に映った自分の心を見て心を解脱する。解脱した後は自分の心はどんなに動いても構わない。摂取不捨の仏心(不動)の中の動だから。また、「船」は智慧、「岸」は心境の譬え。ご本願の船に乗る。すなわち智慧をいただけば智慧のお育てにより自ずと心境が深まっていく。仏になるための努力(行)はいらない。智慧が仏への道を歩ませてくれるから。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-23 06:32 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

御恩を忘れぬよう

  二七一、伏見の僧勝因、
  常に念仏しけるが、ある時師に見えて、
  私は常に称名が怠りがちて御座ります、
  如何いたしましょう、と申し上げたれば、
  汝の申す念仏は、自力にてはなきかや。
  いや今すこし考えておこう。 との仰せなり。
  数日を経て伺候しけるに、
  何日ぞや、考えておこうと申したが、
  念仏を怠るまいと用心するより、
  御恩を忘れぬように心がけたがよい。
  との教示なりき。

  (香樹院語録)   
 

 この僧、名前が残っている。「私は常に称名が怠りがちて御座ります、如何いたしましょう」とは念仏する自分を誇っている。これでよいとしている。この僧の念仏は呪文のような異様な念仏で「自力にてはなきかや。いや」自力の念仏ですらない。すっかり間違った道に入り込んでいる。「いや今すこし考えておこう」と、香樹院師、さすがに言葉を選んだ。後日改めて「御恩を忘れぬように心がけたがよい」と。この僧の念仏、親鸞の流れを汲む念仏ではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-21 06:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

同行の御暇乞い

  二九七、ある人御暇乞いにまいり、
  此世ではこれが御暇乞いで御座ります、
  今度は御浄土で御目にかからして頂きましょうと
  申し上げたれば、師は態と聞かぬさまをなし、
  フーンとの御一言にて、顔をそむけられける。
  また或る人伺いたれば、からだの暇乞いに来たか、
  心の暇乞いに来たか。体の暇乞いは致すが、
  心の暇乞いは蓮臺に手をかけるまでは致さぬ。
  と仰せられぬ。

  (香樹院語録)  

 香樹院師、死の床でもなお弟子に対しては「心の暇乞いは蓮臺に手をかけるまでは致さぬ」と手厳しい。最初の人は身分の高い人らしく「今度は御浄土で御目にかからして頂きましょう」などと適当を言って逃げ出した。師の前に出るはこわい、腹の中までお見通しだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-20 06:10 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

一子地

  一二七、親ひとり子ひとり、よりて一子地とのたまう。
  親の実がやがて子の実なり。
  名号の大宝が我が物なりと知らせて頂かば、
  嬉しや嬉しやと、憶念称名おさゆべからず。

  (香樹院語録)  

 信の一念に「親の実(まこと)」をいただく。いただいたものであるけれども「我が物」である。「親の実」をもって「親」になる。親に見つけていただいた迷子の子がやがて親になる。仏が仏になる。これほど確かなことはない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-18 06:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

御同行えの御書状

  一三、今度の一大事の後生、
  おのが善悪のはからいをすてて、
  ただ阿弥陀仏に助けられて、往生するぞと信じ奉り、
  念仏申すより外なき也。

  御化導にあい奉り候えば
  ただ己が助かると思うこころになりてと、
  なれぬ身をしらずに、なれることのように存じ候が、
  無始以来の自力にて、
  此度その心に執心のやまぬが不便さに、
  此心は万劫の仇なりと詮はされたり。

  是れによりて
  助かると思う心をまつにもあらず、調べるにもあらず。
  本願に助けらるると、御聞かせにあづかり候えば、
  助かるとなられたが助かるにあらず。
  助からぬものの助かると思いとりて、
  念仏申し候が、肝要の御事と存じ候也。 徳龍

  御同行中

  (香樹院語録)

 この法語には「御同行えの御書状」と題がされています。香樹院師の署名付きの文書です。「御同行中」と宛名がされているように、念仏の核心が誰が読んでもわかりやすく書かれています。繰り返し繰り返し声に出して読んでほしい。わかりやすいからわかるとは限りませんが、それぞれに味わい深くいただくことが出来るのではないでしょうか。

 われらは心を自分と思うから執着する。執着すると支配され苦を受ける。そのことに気づかず迷い続ける不憫さに「心は万劫の仇なり」(心はわたしではない)と仏菩薩、善知識の方々は教えてくださった。教えを信じ、心への執着が落ちた瞬間に仏の心を経験する。仏の心こそが「本当のわたし」なのです。人の心では成仏できない。いただいた仏の心が「本当のわたし」になるので「成仏」といいます。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-17 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  六四、江州草津驛、合羽屋某に対せられての仰せに。
  或ときは往生一定と思い、或ときは往生不定と思う。
  この二つをすてて、ただ弥陀をたのむことじゃ。

  (香樹院語録) 
 

 疑うというのが知性の本質だから仏を疑うのは当然だ。見えない心を経験もせず信ずると言ったら、それは嘘だ。仏がどういうお方かがわかったら信じるというのでしょうが、それは無理だ。知性では届かないから仏智不思議という。こちらからは決して届かないがあちらから届けてくださる。自分が、自分がで、目一杯になった心が空になれば空になった心に仏の心が入ってくださる。


 「往生一定」「往生不定」と、結果を考えているうちはまだ余裕がある。自分の心がもう信用ならない。嘘ばかり。計算ばかり。もう、すっかり愛想が尽きた。世間を騙して生き抜くことは難しくない。しかし、こんな心じゃ生きてる意味がない。このままでは死んでいくことすらできない。仏さまがなにかもわからないが、もうお念仏するしない。こうなったのが「たのむ」ということでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-16 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

頼ませて頼まれ給う仏

  二七八、頼め助けようとのたまうは、
  たのまぬ先に助かるように御成就の南無阿弥陀仏。
  爾れば頼んだら助かられようか、
  また助かるまいかの分別のある筈はない。
  たのめば早や助かるの勅命なり。

  またの仰せに曰く。
  我等の心はかわる心故、
  如来様がすがる南無の二字まで御成就也。
  如来の心で如来えすがる故、機法一体也。

  (香樹院語録)

 弱い心を強くしたいのが自力。生存競争を勝ち残っていくには強い自我(自負心)と他を排する激しい闘争心が必要だ。この心は六道を流転する心で涅槃(心からの安心)を開くことはできない。仏になるための仏心は生存競争を本能とする人の心からは出てこないからだ。絶対に不可能である。それゆえの五劫思惟のご苦労である。ないものはいただくしかないから(われらからすれば)他力という。仏から仏の心をいただくことを信心という。仏の心が仏になるのである。人の心は仏にはならない。

 では、どのように仏心をいただくか。「たのめば早や助かるの勅命なり」。すでに救いの道は十劫の昔に成就している。だから「自分の心」を頼みとして生きてきた生き方を捨てて「仏の心」を頼みとする。南無「自分の心」から南無「阿弥陀仏」へと転ずる。これを「回心」という。これが仏心をいただく救いであるが、「頼め助けよう」のお約束を信じることは強い自我(自負心)と他を排する激しい闘争心のわれらには誠に難信である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-14 06:12 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信は聞思に局る

  二七〇、江州長浜御坊にて或る人に対せられて、  
  後生大事になると、念仏申す所までは行けるが、
  それから先きえは、中々容易に行かれぬ。と仰せられける。
  然らば如何致すべきや、と尋ね上げたれば、
  心にかけて聞き聞きすると、御慈悲から、
  きっと聞きつけて下さるる程に。との仰せなりき。

  (香樹院語録) 
   

 この法語には「信は聞思に局る」と題がついている。「聞思」とは聞いてよく考える。法を学ぶのではなく自分の心の問題として聞く。勉強するように法を聞くから「それから先きえは、中々容易に行かれぬ」となる。結局、「念仏申す所までは行けるが」信に届かない。これが念仏するが信がわからない人の姿である。

 どんな人も時々に「人生問題」を抱える。一生背負って歩く重い問題もある。これが法を聞く材料になる。人生問題は"外"の問題であるが、問題をつくる「自分の心」に着目すれば"内"なる「生死の問題」になる。「心にかけて聞き聞きする」と仏法がずっとわかりやすく、聞き方も深くなる。信とは心の問題の決着である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-13 06:43 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏法は聴聞にきわまる

  二九、ある人の尋ねに。どうも薄紙隔てたようで御座ります。
  仰せに。そうじゃ。おれが身でもお前でも、薄紙どころじゃない、
  渋紙ほど厚い。それを破ってくだされるのが御化導じゃ程に。

  (香樹院語録)

 信心とは仏の心をいただく。とてもとても「薄紙隔てた」程度のことではない。その大変さがわからぬから「どうも薄紙隔てたようで御座ります」となる。すかさず「薄紙どころじゃない、渋紙ほど厚い」と香樹院師は注意する。この法語には「仏法は聴聞にきわまる」と題がついている。聴聞とは仏心をいただいた善知識のお姿から生きて働く仏心の脈動を直に感じさせていただく機会である。勉強の場ではない。勉強している限り「わかりそうでわからない」で終わる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-12 06:47 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

命がけで聞けば聞こえる

  一一一、或る人、御面倒さまながら、
  御一言御聞かせ下されと申し上げたる時、仰せられ候。
  仏になるほどの事、一口や二口で聞かせられようか、
  自力の修行なさるる御方は、無量永劫御修行なされても、
  證られぬ證られぬと御嘆きなされるに、
  今五日や七日聴聞して、仏になろうと云うは、
  横着な心ゆえ信が得られぬのじゃ。
  なんでも、命がけで聞けば聞こえる。別なことを聞くのでない。
  同じことを聞き聞きすると、聞こえて下さるるのじゃ。
  ちやうど、染物にするに、藍壺のなかへ
  幾度も幾度もよく染めた所で上紺になる。
  よく染め揚げたが信心じゃ。

  (香樹院語録)

 この話の「或る人」は、尊い善知識とも知らず「御面倒さまながら、御一言御聞かせ下され」と、実に非礼なことに、なにも聞きたいことがない。信仰上の疑問を晴らすための聴聞である。疑問がなければ聴聞の場に来る必要がない。疑問に答えられない先生なら別の先生を探すべきである。「別なことを聞くのでない。同じことを聞き聞きすると、聞こえて下さるるのじゃ」。信仰上の疑問とはそうない。つきつめれば一つである。「なんでも、命がけで聞けば聞こえる」。一つの疑問を晴らすために、ようやく人に生まれさせていただいたのである。あなたが本当に聞きたいことはなにか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-11 06:54 | 香樹院語録を読む | Comments(0)