カテゴリ:香樹院語録を読む( 161 )

隔て心

  一九九、あなたの方から狎れ近づいて下さるるけれども、
  我等が方から受けつけぬ。参りやすい極楽え参られぬようするの也。

  (香樹院語録)

 光の方に向かわずに暗い方暗い方に心が向いてしまう。暗い方とはもちろん自分の心です。遠い過去世から身に蓄え続けた手強い習性です。永き世の習いで自分の心に指示命令されることにすっかり慣れきってしまって、いつも自分の心をご主人様のように畏れている。六道とは自分の心が造る六種の苦悩の世界。宿業の身を持って生れたのだから、六道を流転するのは前世と来世だけでなく、現世だって流転の真っ最中です。自分の心を主人とする限り六道の苦悩を逃れることは出来ない。あなたがそれを望んでいるから。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-08 06:05 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

うろうろした心に

  一七二、私は人がいろいろと申せば、
  心がうろうろと致します。
  師の仰せに曰く。それが却ってよいのじゃ。
  建てた柱は動きはせぬが、倒れることも又早い。
  川端に生えた木は水のながれにつれて動けども、
  根元が確としておるからなかなかに倒れぬ。
  其のうろうろした心によく聞くと、
  実に御誓が聞きつけられる。

  (香樹院語録)

 みな動揺しない心が欲しい。それを「不動心」という。人の心は常に縁に催されて自由に動く。「うろうろ」するのが本性であるから人の心は「不動心」にはならない。求めてもムダである。そもそも「不動心」とは仏の心である。永遠に不変である。仏の心に摂取されれば「うろうろ」するわたしの心は(仏の心につなぎ止められて)「うろうろ」するままに自由である。それをなんとか経験させたいというのが仏教である。「うろうろ」する心をいじっても仕方ない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-06 06:24 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

泣いて法を説く

  二一三、師、平生静かに高座に登りて、
  「善知識さま今般深重の思召をもって、
  この表御門末一同え御教示なし下さるる」と声も次第にかきくもり、
  御涙と共に口をつぐみ給いて暫しは時を移さるることあり。
  かかる時は聴聞の道俗ともに打ちしぐれて、
  一座水をうちたる如く静まる。
  また御法話の間にときどき涙に咽び、
  御声の止まり給うをもあり。
  これけだし本願大悲の尊さを思い、
  人々の不審なるを悲しみたまいてのことなるか。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 竹内先生の毎月の定例会はわたしのなによりの楽しみでした。幼稚園児が遠足を楽しみにする心と同じです。毎回毎回、推敲に推敲を重ねたであろう講義原稿を手に抱えて出てこられました。これはお人柄です。男前でしたから女性のお弟子さんが多かった。講義の内容も大事でしょうがわたしはほとんどメモを取らない。だからノートも残っていない。

 わたしには先生のお顔を拝してお話を聞いているだけで満足でしたから。月例で歎異抄の講義もありましたが、自宅では念仏しずらい人のためにただ念仏するだけの念仏会も毎月ありました。ここには生きた仏法があると思ったものです。先生がなくなってから二十年が過ぎましたが、光につつまれた会座がいつも思い出される。わたしの人生がそこにありました。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-05 06:28 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

摂取不捨の味わい

  一三六、阿弥陀如来、五劫永劫の難行苦行は、
  我等がやすやす仏になる種じゃぞ。
  親を泣かせるも子の心一つ、喜ばせるも子の心一つ。
  何時までも地獄の人数で居るが、大悲の涙の種じゃ程に。
  真実の親に、抱き上げられたようになったが、
  摂取せられた味いじゃ。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)
 

 人の心が造る心の世界に六種あって六道という。心が造って心が住む。外にはない証拠に六種の世界を行き来する。どんなによくても一時の満足、やがて転落して、悪ければ身を細切れにされてジリジリと火に焼かれ続ける地獄に落ちる。仏教は六道を超えて仏のお心でできた安楽世界に生まれよと教える。一度仏のお心の中に生ずれば、つまり摂取不捨を経験すれば、二度と六道(人の心)には戻らない。香樹院師が「摂取せられた味いじゃ」というのは「即得往生」のことを言っている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-01 06:18 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

一信二喜

  八七、一念の信に二の喜びあり。
  六道の苦を免るる喜び、浄土の往生を期するの喜び。
  この二つの喜びを思えば、
  此世で我がなしたる悪事で必ず刑罰に逢うべき難を救わるると、
  思いもよらず長者の家のあとめになるとの、
  二つの喜びのそろうたものはない。
  然るに今は、二つの喜びを、一念の信にそなえて與え給う。
  機法二種の信心の相なり。  

  (香樹院語録)

 「六道」とは心が造る六種の世界。そういう世界は外にはないが心が造って心が住む。この六道(人の心)を超え出た処を「浄土」という。人の心を離れ出る一瞬の信仰体験を「信の一念」といい、「浄土」から六種の世界(自分の心)を照らし見るので「智慧」という。「六道の苦を免るる喜び」も「浄土の往生を期するの喜び」も信の一念に成就する。この身とこの心、すなわち「現在」を超えているので「未来」という。だから、仏教で「未来」というときは死後の話ではない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-08-29 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

厳烈なる慈誨

  二四七、後藤祐秀、かって祖跡を巡拝して越後に至り、
  無為信寺に参じて師の教を受く。
  ある日早朝に辞して帰らんとし、船場に行きしが風ありて便船出でず。
  則ち再び引きかえして事の由を師に告げ、
  今日は一日逗留して、近きあたりの名所見物をなさんと申し上げたれば、
  師の曰く。名所をみること何の益あらむ、宣しく書を見るべしと。
  秀曰く、仰せさることながら、己に行李を理めて手に読むべき書も候わずと。
  師色をかえて曰く。一日読む程の書はここにもありと。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 信をいただく以上のことはないのに、後藤祐秀という人、信を取ろうという真剣さがない。無為信寺に参じて師の教えを受けるもただの祖跡巡拝、観光気分を師に厳しく見咎められた。たかが一日くらいの名所見物、許さぬ師ではなかろうけれど、信を求める志がなさすぎる。目の前に善知識がおられ、なんでも聞けるのに、なぜ、日ごろの不信の胸の内を聞いていただかないか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-08-28 06:49 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

おさめ、たすけ、すくう

  二八〇、仰せに。どこにか腰ぬけがあるとみえて、
  阿弥陀の三字を、おさめ、たすけ、すくうと読むとある。
  機の造作をはなれて、ただ大悲のまことを仰ぐばかりじゃ。

  (香樹院語録)   

 「おさめる」とは内容物を選ばず、壊さず、そのまま収容する。「たすける」とは仏の心の中に引き入れて人の心から離す。心への執着を落とす。「すくう」とは仏になる道を歩ませ仏にする。「人の心」の他に「人の心」を超えた「仏の心」があることを教え、それを経験させようというのが仏教です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-27 06:43 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  八五、秀存師、ある夜、香樹院師の寮にまいり、
  御酒をいただき、師の命をうけて同席して臥し給う。
  その時秀存師は、ああ、今日も一日ありがたう御座ります。
  これから極楽の夢みましょう。 と申さる。
  香樹院師は、ああ、今日も一日淺間しや。
  これから地獄の夢みましょうか。 と申されけると。

  (香樹院語録)  

 「これから極楽の夢みましょう」の秀存師は往相(自行)にいる。香樹院師は「これから地獄の夢みましょう」と還相(化他)におられる。還相ということについて、ある時、竹内先生はこのようなことを言われました。還相というけれど、われらに還相などということはないのでしょう。どこまでも法を聞いていく。その姿を見て念仏称える人が出てくる。「わたしは還相の菩薩である」なんて言ったら変な話だ。親鸞は教える側ではなく、いつも法を聞く側に身を置いていた方だと思う、と。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-26 06:37 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

禅僧弘海との問答(2)

  七六、予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、
  自ら聖教を読んで我が耳に聞くと云うこととは、有難く承わりぬ。
  但、念仏するを聞くと申すは、我れ称えて我が声を聞く事に候や。
  師大喝して曰く、汝何事をか云う。
  我が称える念仏と云うもの何処にありや。
  称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることを得ん。
  称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、
  抑もこの念仏は、何のために成就して、
  何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
  即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 どうすることが聞法か。禅僧弘海にはわからなかった。聴聞し念仏するだけで、一向に信心が開けないのは聞きようが間違っている。なにをどう聞くのか。禅僧弘海は愚かなまでに率直に師に詰め寄る。わかるまで聞くぞという迫力だ。香樹院師、大いに喜んだに違いない。

 「この念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思え」、それが「聞法」ということだと教えた。ただ念仏を称えるのではなく、仏はなぜ、われに念仏を称えさせるのか。考えては称え、称えては考え、「聞思して遅慮するなかれ」の親鸞の言葉通り、念仏以外になにもなくなるまで考えに考える。「常に称えるのが、常に聞くのなり」。命がけになれば仏のお心が聞こえる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-25 07:01 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

禅僧弘海との問答(1)

  七五、予(禅僧弘海)問て云わく、
  よく聞くとは如何聞くべきや。
  師曰く。骨折って聞くべし。
  予云わく、骨折るとは、遠路を厭はず聞き歩くことに候や、
  衣食も思わず聞くことに候や。
  師曰く、然り。
  予また問うて云わく、
  然らば、夫程に苦行せねば聞こえぬならば、
  今迄の禅家の求法と何の別ありや。
  師呵して曰く、汝法を求むる志なし、
  いかに易行の法なりとも、よく思え、
  今度仏果をうる一大事なり。
  然るに切に求法の志なき者は、
  是れを聞き得ることを得んや、
  ああうつけもの哉と。
  予云わく、然らば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
  師曰く、最も然り。切に求むる志なくして、
  何ぞ大事を聞き得んや。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 疑いとは人の心の本性である。なにも信じてない。人も自分も信じてない。信じるものがないとは惨めなものである。愛とか正義とか未来とか、なにかを信じた振りをして一生を通すことはできるが、本当はなにも信じてない。信じない心は金と物を信仰する。物のように生きた者は死ねば物に帰るだけだ。この世に信じうるものがあるかどうか、心があるなら勇気を奮って自分の眼で確かめてみよ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-24 06:03 | 香樹院語録を読む | Comments(0)