カテゴリ:香樹院語録を読む( 138 )

掛橋

  四九、「掛橋や、いのちをからむ蔦かづら」。
  芭蕉が夜のあけぬうちに宿を起ち、
  眠り眠り木曾の掛橋をとほりかかった時、
  ほのぼのと暁近うなったから、谷をのぞいて見たれば、
  やれやれ恐ろしや、千丈もある山の腰の掛橋であった。
  ようも躓かなんだとの意。
  今も其の如く後生大事の明るみが出て方角が知れ、
  後生知らずに今日まで暮したことを思うて見れば、
  まことに千丈の谷の上で、目が醒めたような心地じゃ。

   (香樹院語録)

 智慧を光に喩えるは「見えないものが見える」ようになるから光という。眼がよくて見えるのではなく光があるから見える。智慧の光はなにを見えるようにするかといえば「自分の心が見える」ようにしてくださる。なぜ仏はわれらに智慧を与えてくださるのか。「見えるとは離れること」だからです。心の思い通りにしたい貪欲と、思い通りにならない瞋恚にボロボロになっているが、「心のいう通りにしなくていい」と教えるために仏は智慧を回向してくださるのです。あなたを苦しめている“自分の心”から自由になる。これにまさる喜びはない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-29 06:46 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二五、たのむ謂れも知って居る。
  悪人じゃと云うをも知っている。
  後生大事も呑み込んでいる。
  頑是なきわけ知らぬ子には教えよい。
  なにもかも合点して、悪事やめぬには仕方がない。
  浄土真宗の門徒、多くは皆この通り。
  御化導も呑み込み切って居ながら、
  我が身の地獄を何とも思わぬは残念也。

  (香樹院語録)

 仏法は心を映す鏡である。智慧の鏡に曇りはない。法を聞いて心を見ない者は法を聞いていないのである。ただ言葉を覚えただけである。念仏の真似事をしただけである。心を見ないのは心を見るのが恐いのである。心が少しはましになったら鏡を覗いてみようと思っているが、死ぬまで心が見られない。浄土真宗の門徒、多くは皆この通り。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-28 19:54 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

不思議

  二九六、安政四年十二月二十七日、
  秀存師、師の病床をたづねられたれば。
  仰せに。誰れにも人に尋ねずに、唯だまって念仏を申しなされ。
  存曰く。左様ならば、ただ御不思議におまかせ申して、
  念仏を称える計りで御座りますか。
  師曰く。不思議と云えば、
  今まで命ながらえたのがはや不思議じゃ程に。

  (香樹院語録) 

 秀存師は香樹院師の直弟子。死の床にある師に対するに、師の亡き後、誰かを師にしなくてはならないかと尋ねた。まだ自分に自信がなかった。師は弟子に対するに「唯だまって念仏を申しなされ」と。すでにあなたは信心の人、智慧が涅槃へと導いてくれるのだから、なんで新しい師が必要かと。
 
 すると秀存師、「左様ならば、ただ御不思議におまかせ申して、念仏を称える計りで御座りますか」と、少しばかりくどい。香樹院師、聞き流して「今まで命ながらえたのがはや不思議じゃ程に」と。信心の智慧を与えて、ここまでお育てくだされた仏のお慈悲がありがたいと、死を前に仏恩報謝のお気持ちを述べられた。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-27 06:04 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

山が見える

  七四、船に乗って、向いの岸が近づけば、
  さあ、向いの山が見えたと云うことは、
  十が七八仕おおせたことじゃ。
  各も生死の大海はてのないのに、
  我が疑いさえ見えたら、
  もう仕おおせたものじゃ。
  もう一山ここで越さにやならぬ。

  (香樹院語録)    


 「船に乗って」とは信心をいただいた。「向いの岸」とは彼岸、涅槃の境地のことです。煩悩具足の凡夫は仏ではないが如来回向によって涅槃の一分を経験させていただくことができる。経験させていただいたからこそ涅槃の境地(彼岸)が分かり、そこを目指して修行ができる。信の一念にいただいた「向いの岸」に渡る船を「智慧」という。

 智慧は人間の知恵(はからい)を照らす光であるから人間の知恵を超越している。超越していなければ人間の知恵を照らす光にはならない。智慧を得てはからい分別(煩悩)を始めて見せていただいた体験を信の一念というが、信後も最初のうちは自力と他力の間を言ったり来たりする。何年もの間、智慧がまだまだ身につかない。どこか自信がないが、それが信心が深まって行くプロセスであるのは間違いはない。

 信心の深まりとともに「各も生死の大海はてのないのに、我が疑いさえ見えたら」と、智慧とはなにか、仏とはなにか、今一つ不審が晴れずにいたが、「我が疑い」が見えて、自力がなくなる。他力だけになる。仏を疑う訳ではなかったが、最後まで残っていた不審がようやく晴れる。そのことを香樹院師は「我が疑いさえ見えたら、もう仕おおせたものじゃ」と教えて下さっているのです。

 願力自然(智慧)の働きにより、智慧が自由に働いてくる自然法爾の境地に入ったのです。「もう一山ここで越さにやならぬ」の一山を越えたのです。それなので、師いわく「もう仕おおせたものじゃ」と。さて、「山が見える 」と題のあるこの法語は相手がない。これを聞かせた「各も」とは誰であったろうか。というのも、ここまで来る人は稀であろうから。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-26 14:55 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

  二九五、安政四年十二月三日、
  了信、御枕許にて申し上ぐるよう。

  先年長浜にての御聞かせ、
  あら恐ろしや恐ろしやあら嬉しや嬉しやの思いの起らぬは、
  無宿善じゃとの御意で御座りましたが、
  今私もようよう其処えとどかせて頂きました。
  これは私が罪造りながら知らずにいることを、
  御知らせ下さるることで御座りますか。

  仰せに。そうじゃ。
  凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、
  三塗の業より外に仕事はせず、
  毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ。

  申し上げて曰く。有難う御座ります。
  善知識様の御化導によりまして、
  火の坑の上の綱渡りは、
  私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや、
  かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや、
  国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする。

  (香樹院語録)

 この法語は信心というものがどのようなものか、実にわかりやすい。了信という人、臨終の床にある師に対して、「これは私が罪造りながら知らずにいることを、御知らせ下さるることで御座りますか」と領解を述べれば、香樹院師、言下に「そうじゃ」と認可する。「凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、三塗の業より外に仕事はせず、毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ」。人はみな自分が誰かがわからずに迷うのであると、まことに単刀直入、仏法の核心に斬り込む。

 自分が誰かを知らないから、欲望や煩悩に簡単に騙される。自分の心に騙されていることにも気づかず一生を終る。これは悲しくも、多くの命の、まぎれもない現実である。よくよく心して聞くがよい。さて、信心は必ず二種深信である。「私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや」が機の深信、「かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや」は法の深信、まことにわかりやすいご化導である。信心の人は稀であるから「国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする」と了信は喜んだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-22 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(3)

助からぬ心

  一七五、或る人、師に参りて、
  私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬと申し上ぐ。
  師の仰せに。その心苦にするな、
  微塵も助からぬ心を、助けて下さるが誓願の不思議じゃ。
  それが他力の御不思議じゃ。

  (香樹院語録)  
  

 この人、名前は残っていないが、「私の心は微塵も助かりそうな所は御座りませぬ」と、よくぞここまで聞き遂げた。しかし、まだ仏のお心の中に生まれていない。だから、師いわく「その心苦にするな」と。自分の心に絶望しただけでは信心ではない。まだ仏のお心を知らない。未来に光がない。いつ信の一念が訪れてもよい。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-20 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心は内に向かない

  四三、このたび我等が一大事の後生、
  助かるも己が心、助からぬも己が心。
  我が家を出で足を東へふりむけたと西へふりむけたとは、
  一足のふりむけようでも、大きに方角がちがう。
  地獄へふり向くも我が心なり、
  極楽へふり向くも我が心なり。
  その今迄地獄へふりむけておく心をば、
  此度はふり向けなおして、
  極楽へふり向け給う善知識の御化導。

  (香樹院語録)

 心が外に向けば「地獄」への道。心が内に向けば「極楽」への道。仏はわれらの心の中におられるのである。だから、内に向かうことが「極楽」への道である。しかし、心は内に向かない。心を見て心に絶望すれば生きていられないことを本能的に知っているからである。心より金とか仕事、家族や恋のことを考えた方がずっと楽しいと信じている。臨終の床で結論が待っている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-18 06:15 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

赤尾の道宗

  一四四、長崎の同行、
  はるばると越後まで来りて、御前え参りたる時、
  その顔に、六七十日もかかり、万里の遠路を凌ぎ来て、
  法を求むる道心者なりとの色見えたり。
  則ち師の仰せに曰く。
  赤尾の道宗は、唐天竺まで行きても、
  如何にしても法を求めんと云う志じゃったに、
  今やすやすと居ながら聞かるるとは、
  只事ではないと喜ばっしゃれ。

  (香樹院語録) 
 

 生まれれば死ぬ。始めから分かっていることだが、いざ死ぬとなると「初めて聞いた」みたいな顔をする。死に方は選べず、そもそも、どんな死も死は死、死の事実があるだけだ。一つの命からすれば死はすべての終わりだが、全体の命からすれば大河の一滴、死んだということすらない。そんな命がワイワイと無意味に騒いだ挙げ句、最後は、死んでいく先もわからず「死にたくない死にたくない」と死んでいく。死ぬまではみな死なないと思っているのである。真っ暗闇に頭を下にして堕ちていくだけなら、なんのための人生だったか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-17 05:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心の病としての孤独

  三六、伊勢進士妙念の話に、
  或る同行、私は御恩が知れませぬと申し上げたれば、
  五劫永劫五劫永劫と、独りごとに云うておれ。
  と、仰せられたりと云云。

  (香樹院語録)

 この宇宙に自分一人しかいないことを「孤独」という。仏のお心はこの宇宙に遍満しているが、仏のお心とともにないことが「孤独」である。仏のお心に出会うこと以外に孤独は癒えない。「五劫思惟の願」はわたし一人のためである。わたしのことをわたしの知らない遠い過去からずっと思いづめに思ってくださっていたお心がようやくわたしに届いたのである。わたしはずっと一人ではなかった。それが「信心歓喜」である。孤独という恐ろしい病が癒えた喜びである。心の深いところにみな孤独を隠している。自ら知らず、孤独を癒すために人の愛を求めているが、人の愛では孤独は癒されない。われらはみな一人で死んでいくからである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-15 06:23 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

邪見な心がやみませぬ

  一二、或る人、私は邪見な心が止みませぬ、
  と申し上げたれば、仰に。
  邪見な心が止められぬと思いつめて、
  かかる邪見な奴を御目当てに
  起してくだされた御本願と喜んでおれ。


  (香樹院語録)

 「私は邪見な心が止みませぬ」とは、自分の心が見えてきた。智慧が生じたのでしょう。信の一念の一歩手前です。「邪見な心が止められぬと思いつめて」「御本願と喜んでおれ」とは、自分の心をいじらずに、ただ眺めていなさいというご指導です。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-14 09:02 | 香樹院語録を読む | Comments(0)