カテゴリ:香樹院語録を読む( 161 )

異時因果と同時因果

  七三、断見、常見  
  断見ーーー因果業報を知らず。地獄極楽をなしと執ず。  
  常見ーーー無常迅速を知らず。他力の方便を知らず。  

  (香樹院語録)

 異時因果と同時因果という。地獄極楽を死後とすれば異時因果であり、現在とすれば同時因果である。極度の精神ストレスが見る世界はまさに地獄であり、死ねば地獄に墜ちると思う。地獄があれば極楽がある。信心の智慧が開く心の世界が極楽であり、現在に感得するから同時因果という。信心がなければ感得できないので、不信の心は未来に生まれるところと観念するから異時因果である。すなわち、現生正定聚は十八願の同時因果であり、未来往生は十九願の異時因果である。

 心が外の世界を見るから内と外は因果関係にある。たとえば、異性を見るのは生殖の準備ができたということであり、金や地位を見るのは欲望に縛られているだけの心とあわせ鏡である。われらは死ねば終わりの命である。死ねば終わりの命が死なない命に出遇うのが信仰である。死なない命に出遇うから安心して死んでいけるのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-04 10:44 | 香樹院語録を読む | Comments(4)

自分の心を観察する

  六九、江戸淺草御坊にて、安心のことに就き、
  僧侶より何れが正しきや正しからざるやを、
  御尋ね申し上げたれば、仰せに、
  褄の上り下りは、着物着た上のことじゃ。
  裸体の乞食に其の議論はないぞ。
  との御一言にて、みなみな感じまいらせぬ。

  (香樹院語録)

 信仰とは仏に遇う。仏とは自分が見えること。対象ではない。自分を映す鏡が仏。鏡は映すものを選ばない。映すものを歪めない。ありのままに映す。自分の顔は自分には見えないのだから、自分が見えたら見えたことが仏である。それ以外に仏はない。自分が見えないから迷う。自分が見えたら迷いようがない。見えるようにして救うのが仏のお慈悲である。だから、自分が見えたら、それが仏である。

 では、仏に遇うにはどうしたらいいか。「仏はわたしをどう見ておられるか」と、こればかり寝ても覚めても一日中これだけを考えて暮らす。聴聞すると知識や理屈が増えて困る。仏に遇うのに知識はまったく不用で、むしろ邪魔だ。それよりも、仏の視線の先の自分とはどんなものであるか。仏のお気持ちになって自分の心を観察することである。教義の勉強は信心をいただいてからする。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-01 23:51 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

疑うなよ疑うなよ

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  一八六、或る人、後生と云うことは存じませぬと申し上げたれば、
  師仰せられ候。おれも後生はしらぬ。しらぬがよいのじゃ。
  とやかく思うは凡夫の心。如来様は疑うなよ疑うなよと仰せらるる程に。

  (香樹院語録)   


 心に受け入れられない現実を前にすると人は「なぜ?」となる。自分を疑わずに事実を疑う。自分に都合のいいように解釈して事実を受け入れまいとするが、どうしても受け入れなくてはならないとなると、それが「苦悩」となる。我性と我性が闘争する世間では幸せにはなれない。生まれたら死ぬ。これが当たり前である。現実に疑問がない。ありのままの現実を受け入れて不満がない。これを「涅槃」(安楽)という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-31 22:11 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信を得て念仏する喜び

  五九、此世の喜びは人々同じからず。
  浄土を願う身には誰もかれも同じ数多き喜びあり。  
  一、三悪道をはなれて、人間に生れたる喜び。  
  一、仏法に値いまいらせたる喜び。  
  一、この弘願他力に値いまいらせたる喜び。  
  一、六根具足の喜び。  
  一、悪縁に障えられず、聴聞することの出来る喜び。  
  一、信を得て念仏する喜び。  
  この喜びを知るならば、浮世の不足は云うては居られぬほどに、
  よくよく心得られよ。

  (香樹院語録)  
  

 信仰は一人一人の内心の問題である。一人一人の内心の問題であるから他人はまったく関係ない。仏は一人一人の心の中におられるのだから、心の中で仏と心通じ合えば、それが信仰である。仏と一対一の関係に入ることを信仰というのです。仏と心が通じ合っているかどうかは誰よりも本人がわかっていることで、人は誤魔化せても自分は誤魔化せない。信を得て念仏する喜びとは、やるべきことをやり終えた安心、安堵だろうか。

 南無阿弥陀仏


 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-30 22:22 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心安楽

  四、寿命は聞法のためなり。
  五歳で死するもあり、十五二十で死するもあり。
  それにたくらぶれば、後生は一大事と心づく迄の命を得て、
  仏法聴聞致すことになったは、大なる喜びなり。
  もはや寿命の役目は相済んだと思えば心安楽。

  (香樹院語録)


 法を聞くだけの人生だった。竹内先生にお会いして「念仏者が生まれた」と喜んでいただいたことが思い出といえば思い出である。先生にお会いしてから信体験があった。この逆だったら師をいただく喜びがなかった。なにかを得たと思って喜んでいた時期もあったが、そんなことももうどうでもよくなった。どのようにしたって仏のお心からこぼれ落ちることはないのであるから、心安楽。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-29 23:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

何事は覚えずとも

  三一、何事は覚えずとも、かかるものを御助けの御慈悲、
  命終らば仏になることの嬉しやと云う味わい丈は、是非に覚えねばならぬ。

  (香樹院語録)

 「後生」とは死後の命ではない。死後という時間も場所もない。不思議なことに「今生」(わたし=闇)が見えたから「後生」(仏=光)である。今生を超えて今生を照らす悟りの光を「後生」という。今生ではないから後生という。わたしがあってわたしの死後があるという外道の話ではない。今に無我(仏)にならないから「命終らば」である。「かかるもの」と見えるのが「御助け」である。たまたまの命が永遠の命に出遇ったのである。「命終らば仏になる」現在を「嬉しや」と生かしていただくだけである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-27 07:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

根本の疑い

e0361146_23310248.jpg  九、疑いと云うものに、枝末と根本との二つあり。
  枝末の疑いと云うものは、親子夫婦兄弟などの中に、
  毎日毎日起りて、本に思わぬ事じゃ。
  根本の疑いというは、さっぱりとあかるうなりて、
  胸の中に、どうも虚言じゃと思われぬ様になられぬことじゃ。
  たとえば、其方の子は狐じゃほどに、油断をするなと人が云うたとき、
  どう思うても我が産み落して育てた子なれば、狐じゃとは思われぬ。
  これ人の言葉に転ぜられぬ也。

  (香樹院語録)


 たとえば、赤ちゃんは自分の境遇になんの疑いもない。境遇をありのままに受け入れてなんの疑いもない。そんな心の状態を「無我」という。境遇をありのままに受け入れる心は明るい。境遇にはもともとよいも悪いもない。あなたが好き嫌いを言うものだから境遇に善し悪しができてしまう。こんな境遇でいいのだろうかと境遇を疑う。疑う心は暗い。疑う心は境遇を受け入れない。境遇に問題があると思い込み、自分の心に問題があるとは思わない。これが人生を苦しくする。

 境遇は縁によって与えられてくるものでわれらは境遇を選ぶことはできない。境遇を変えることもできない。与えられた境遇に満足して喜んで生きられれば、これを「疑い」がないという。「どうして?」の疑いの根っこは執着である。執着するから暗い。仏のお心は執着がない。信心とは疑いのない明るい心、仏のお心をいただく。仏のお心をいただいた証拠には、心が明るくなる。与えられた境遇に満足する。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-26 22:19 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

信心を捏造する

  二七、或る時一蓮院師を招きて、酒杯を傾けながら、仰せに。
  凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る故、
  其の心中は我がこしらえもの也。
  教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。
  信心と云うことは、聞其名号信心歓喜の八字を我が腹とするばかりじゃが、
  そう思う人の少ないのは、甚だ残念なり。
  一蓮院師曰く。ただ仏の力お一つで、助けて下さると信ずる外には、
  聞其名号のいわれはない、と聞いて居ります。
  師曰く。それでよし、それでよし。

  (香樹院語録)

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。
  これを「聞」と曰うなり。
  「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
  「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。

  (教行信証・信巻 )

 凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る。教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。真(まこと)の心が獲られないのだから誰も違うとは言えない。仏法聴聞といいながら、教える側も聞く側も信心を捏造することばかりにかかわり果てている。信心は「本願力回向」だから向こう側から来る。

 いただくばかりだから、信心をいただく器を空にして待たなくてはならないのに、理屈で心がいっぱいになっている。空にならないから信心がいただけない。聞き方が根本的に間違っている。心の器を空にするのが仏法聴聞です。信仰は理屈ではなく事実に立つ。嘘は嘘。嘘から「歓喜」は生じない。理屈は嘘だから理屈の勉強はやめて、ただひたすら自分の心を見る。心の現実を知るのに勉強はいらない。日常生活すべてがあなたの心の現実を教えている。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。仏さまはとうにあなたの心の現実を知っている。あなたが仏さまが知っているようにあなたの心の現実を知れば、あなたにかけられた仏さまのお心が知れるというものだ。これが疑心なし。事実を事実と受け入れる謙虚さが信仰の基礎になる。信仰は事実に立たなくては疑心が晴れるとはならない。捏造された理屈の信心では疑心も晴れず「歓喜」も生じない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-20 06:10 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仏との対話

e0361146_16295888.jpg  二三〇、仰せに。凡夫のこころは浄土参りの種にはならぬ。
  信決定の時凡夫の心を消して、如来さまの御心一つにして下される。

   (香樹院語録)

 人と生まれたことは苦悩である。あなただけでない、親も兄弟も、教師や仲間、親族、周りの者みな暗い心を内深くに隠して生きている。隠していることも知らずに苦悩している。だから、あなたの苦悩を最後まで聞きとげてくれる人はいない。聞けば聞いたことを利用するのが人である。あなたもそうするに違いない。この世の利害から自由な人などいないから、人ごとにあなたを利用する。あなたの苦悩を正しく受け入れ、最後まで聞きとげてくれるのは仏さまだけである。

 仏さまと一緒の生活が信仰である。仏さまはどこにおられるか。仏さまはあなたの心の奥底におられる。仏さまと心通じあい、対話できるように、あなたの心の奥底に降りていく。そのように信仰するのです。仏法聴聞に勉強は必要ない。知識もいらない。南無阿弥陀仏と称えて、自分の心を見せてくださいとお願いするのです。自分の心が見えたら、それが仏さまと心が通じたことです。仏さまと心が一つになった。悩みは人に聞いてもらうのではなく、仏さまに見ていただくのがよい。それが仏法聴聞、南無阿弥陀仏の生活です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-19 06:20 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

骨折って聞くべし

  二二、得た得たと思うは得ぬのなり。
  得ぬ得ぬと思うはなお得ぬのなり。
  そんなことではない、と仰せられたり。

  一〇、頼めとあるも、すがれとあるも、
  称えよ称えよとあるも、皆助くる助くるの仰せなり。
  天が地となり、地が天となる例があるとも、
  間違わさぬ、疑うなよ疑うなよと、
  阿弥陀様の直の仰せと聞こえるまで、骨折って聞くべし。

  (香樹院語録)

 「得た」と思って満足するは「自分の心」でしょう。「得た」というのは「悟った」というのでしょう。「信心を得た」というのでしょう。結局は「自分の心」を出ていないと、香樹院師は言っているのです。仏法は「出離生死」といって「自分の心」を出ること、この一点しかない。出たか出ないか、これ以外にない。わかりやすい話だが、こんな難しいこともない。「骨折って聞くべし」。真面目に聴聞している人はこれに一生を懸けている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-15 19:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)