カテゴリ:香樹院語録を読む( 161 )

聞法の用意

(このシリーズは終わります)


  一、年久しく聴聞いただけども。
  心の同辺たるは、過去の業報つよくして、
  又も三悪道にかえるしるしなりと釈尊の説き給える金言に、
  少しも違わぬさまにて、まことに悲しく覚え候。
  このうえは、行住坐臥、念仏をこととして、
  御化導を、火の中をすぐる心地して、我が心をへりくだりて、
  恭敬尊重の思いより、ひとすじに聴聞申すべし。
  御慈悲にて候間まことの信はえらるる也。

  (香樹院語録)

 さて、「香樹院語録を読む」は今回(161回)で終わります。ネットで語録を紹介していただいた真宗大谷派念佛寺さまのご苦労があって、改めて語録を拝読するご縁がいただけました。ありがとうございます。「歎異抄」は親鸞聖人の生きたお言葉を伝える語録として尊く、「香樹院語録」も同じくらい大切にされてよいのではないかと思います。これほどの書が世に流通していないのはなぜなのか。理由を知りませんが、残念なことです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-29 06:01 | 香樹院語録を読む | Comments(6)

  一五九、聴聞したお謂れの覚えられたか覚えられぬかを、
  吟味するには及ばず。

  (香樹院語録)

 この法語には「語を聞かずして意を体せよ 」と題がある。聴聞の秘訣は言葉ではなく言葉が伝えようとしている心を感じることだというのでしょう。信心は「感応道交」といいますから、仏さまのお心とつながるように、仏さまのお心を感じるように聴聞することが大切です。心は形がないから心を感得した人が言葉で心を伝えてきました。いわば、水(心)は器(言葉)に入れて運ばれる。器は水を容れるだけの用ですから、器に気を取られてはいけない。コップを渡されたらコップを眺めていないで、すぐに中の水を飲むことです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-23 06:21 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

宿善

  一四三、鷹には経緒と云うものを付けておくゆえ、
  何処え飛びまわっても、つづまるところは鷹匠の拳えとまるように、
  我等には宿善と云う経緒が十劫正覚の古から付けられてある故、
  遂には手繰とられて、平等施一切の御回向によって名号の宝珠をもらい、
  御助け候えの帰命の信心が起るなり。

  (香樹院語録) 
  

 「救われる」というが、なにから救われるかといえば、「自分の心」から救われるのが仏道である。「自分の心」を価値とも意味ともするわれらにとり「自分の心にだまされるな」と言われても、なかなか聞けるものではない。そんな仏法を生涯かけて聞かせようというのである。どこからそんな力が出て来るのか、まこと不思議である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-22 06:34 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

断見、常見

  七三、断見ー因果業報を知らず。地獄極楽をなしと執ず。
  常見ー無常迅速を知らず。他力の方便を知らず。

  (香樹院語録)

 「断見」は死ねば終わり。過去も未来もない。しかし、現世は前世の結果であり、現世は来世の原因である。過去と未来を否定すれば現在もわからなくなる。よって、ただ生まれてただ死ぬだけの虚無である。信仰も道徳も成り立たない。「常見」とは魂は死なない。身と心を区別し、心は魂となって生まれ変わるから死はない。魂は自我の変形態で心への執着によって妄想される。心への執着が苦悩の根本原因であるから、仏教は魂を否定する。

 よって「断見」も「常見」も仏教ではない。仏心はすべてを受け入れるから「無我」(無霊魂)であり、この身に蓄えた宿業に縛られた人の心に超越するから三世に縛られない。因果を明らかにした上で、因果にも縛られない。仏教は人の心が造る迷いの境地を「六道」と示し、六道を超越した悟りの境地を「涅槃」と教えている。この身は死ぬ。しかし、永遠不変の仏心に触れた心は不死を得る。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-21 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

綾五郎の臨終

  一七、綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
  私、生涯御法を聞き、此頃は日夜に六万遍の念仏を申して日課にいたし、
  本願を心にかけ居り候えども、信心なくば、
  空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、誠に歎かわしく候、と。

  予、是れに答えて云う。
  念仏を多く申して仏に回向するさえ、仏しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。
  まして念仏申し本願に心をかけ、そのうえ信の得られぬ事を悲んで、加被をまつ。
  是れ辺地の往生疑いなしと。 (以下略)

  (香樹院語録) 

 信を得たと信を得ぬとの区別は仏さまにはおありにはならない。仏さまは区別されているのではないかとの僻み心が取れぬゆえの「辺地の往生」ではないか。綾五郎、「私、生涯御法を聞き」と言うがすでに驕慢心である。それゆえ「日夜に六万遍の念仏」を仏さまに押し付ける。仏さまからすればすでに救ってある。われらからすれば救われてないと思う。無条件の救いに「日夜に六万遍の念仏」の条件をつけるのが疑いの心である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-20 14:29 | 香樹院語録を読む | Comments(2)

おとみ、聞こえたか

  二九〇、江州神崎郡のおとみ、
  師の御病中に伺いければ、仰せに。
  おとみ、聞こえたかと。
  おとみ申し上ぐるよう。
  私は領解も何も御座りませぬ、
  行くさき真暗で御座ります。
  師の仰せに曰く。
  暗いなりで、つれて行って下さるる御慈悲があるぞや。
  おれは先へ行って待っている程に。

  (香樹院語録)  

 香樹院師は待っている。おとみに信が起きるのが近いからだ。「私は領解も何も御座りませぬ、行くさき真暗で御座ります」は大疑団である。右も左も上も下も、なにもわからない。なにがわからないかもわからない。わからないということもわからない。真っ暗闇のどん底に落としていただくお慈悲である。おとみ、もうじき光に遇う。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-17 06:37 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

はからいの事

  五二、はからいと云うは、これでも助かると、
  落ちついて居るのが、計うて居るのじゃ。
  皆が計いというは、煩悩を苦にしたり案じたり、
  くよくよと煩うて居ることとばかりと思えども、そうではない。
  我々はすっぱりとして居ると思うて居れども、
  よくよく御慈悲も聞こえず喜ばれもせず、御教化と不都合な胸とで、
  是れでも御助けと了簡つけて居るのが、やはり計らいじゃ。

  (香樹院語録)

われらは理屈で救われるわけではない。頭で理屈を立てても理屈を言う頭が最初に死ぬ。「よくよく御慈悲も聞こえず喜ばれもせず」、死んだ後の浄土を言い立てても理屈にはなにも証拠がない。信心の智慧をいただけばこそ、それを与えてくださった仏の証明になるが、それもなく、ただ理屈だけで「是れでも御助け」と言ったところで内心は惨めなものだろう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-15 06:09 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

煩悩に眼さえられて

  一六四、煩悩に眼さえられては、如来の光明も拝まれぬ。
  盲目の子は、親の家、親の側にいながらも、親を見ることが出来ぬ。
  親の顔は見ること出来ねども、親は常につき纏うている。

  (香樹院語録) 

 見えなくても"そこに"おられる。それをなんとお呼びしようと、われをみそなわす"お方"がわれに臨んで"そこに"在(ましま)す。目には見えない"お心"の中にわれらは住んでいる。気づかずにいるだけだ。目に見えるものは壊れるものである。永遠不変だから目に見えない。見えない"お心"がわれらを包んでいる。そこに仏、在(ましま)す。われは一人ではない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-13 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

雨夜の月

  一七〇、「弥陀たのむ人は雨夜の月なれや、
  雲晴れねども西えこそ行け」。
  忘想転倒の雲は臨終まで晴れねども、
  御回向の信心に不断光の光がまします故、
  心不断にて往生なる也。

  (香樹院語録)

 この法語の題は「雨夜の月」です。月の光で雲が透けて見える情景に譬えて、智慧(月)の光をいただいて始めて貪瞋煩悩(雲)が見える信心の相を伝えようとする。信心の先には 「往生なる也」の未来があるが、未来(仏)が現在(凡夫)を照らすので、念仏者は未来(成仏)を目指して歩みを進めることができる。「未来は明るいか」と竹内先生はいつも言われた。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-12 06:58 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心の番は出来ぬ

  二三三、越前の或る僧火難にあい、
  五尊の御像までやきまいらせて悲歎やる方なく、
  夜も寝られぬほどなりしが、
  日を経るに従いて何時しか其の心も失せ,
  寝覚めの床につらつら本堂再建のことを思えば、
  何処よりともなく名利の心も出で来て、
  我ながら淺ましさに堪えず、
  京都本願寺え詣して御影前に懺悔するに、
  最初は涙も流れて心底より悲しかりしが、
  度重なるに従いては又々常の心となる。
  僧いよいよ身の程の恐ろしさを感じ、
  遂に師に参じて右の次第を具陳せり。
  師の曰く。老僧、どうしても心の番が出来ぬからのう、
  それで五劫が間の御思案じゃぞや、と。
  僧感泣して退く。

  (香樹院語録)  
  

 六道輪廻は三世にわたる。これが現世の「六道輪廻」というのでしょう。この僧、老年に至ってようやく心が輪廻する様に気づいた。生涯、これを繰り返してきた心に気づかなかったが、これに気づいたが法のお育てである。自分の心を自分の心でコントロールすることはできない。なぜなら、心は因縁生起であるから自由無碍に動く。動くことが本性の心を管理することはできない。管理しようとすれば心が病にかかる。心は常に動くのだから「不動の仏心」につなぎ止めていただくことが必要である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-09-09 06:09 | 香樹院語録を読む | Comments(0)