機の深信(続)

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)

  機の深信は負ける世界だ。負ける人は礼儀正しい。
  機の深信は負けた姿。負けた姿は美しい、素直である。
  負ける世界を与えてくださるのが如来の大慈大悲というものである。
  そこに心の平和がある。
  人間が邪見驕慢になって、何とか人に勝とう、捩り倒そう、
  押し除けようと考える。それが迷いである。苦悩の根源である。
  一体人間がそのような殺伐な心を起こすのは
  人間には生死無常という真理を素直に受取る智慧がないからだ。
  自分を信ずるとはどういうことか。
  自分の分限を知ることが自分を信ずること。
  自分を本当に知らして貰うた所にそこに仏のおたすけがある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 負けるとはおのれの事実に立つ。どんな事実も受け入れないということのない心の柔らかさ、明るさがある。事実を受け入れないのはまだ自分に執着があるからでしょう。負けたくないのは自分に自信がない。自分を築き上げる途中なのでしょう。心に余裕がない。なにもかもが足りない。足りないから急ぐ。その根底にあるのは暗い心、劣等感に違いない。自分の心を見たくないのは劣等感があるからでしょう。


 なにかを補うため、なにかを取り戻すため、なにかを忘れるために生きるなんて、はじめから暗い人生です。なにを得ようとも、その暗い劣等感を埋め尽くすこともできなければ、なにを得たとしても空虚さを癒すことはない。仏のお心に遇えば、いま持っているもので十分に満足だと教えていただける。はじめから勝ち負けなどないから、勝つこともいらず、勝つことのいらない者に負けなどない。だから、喜んで負けていられるのでしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-15 15:58 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

機の深信

e0361146_10271998.jpg  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまえり
  法身の光輪きわもなく
  世の盲冥をてらすなり

  (浄土和讃)

  我々は自分自身を知らぬ。
  自分自身を知ることが出来ぬ。
  外の方は一応知識を持つ。
  月の世界まで旅行することが出来るまで人間の知識は進んだが、
  自分自身を知る眼は全く閉じている。
  これは、阿弥陀如来の御光に照らされて
  自分自身というものを見るところの智慧を始めて与えてくださる。
  それを機の深信という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 この命に寄り添い、この命を悲しみ、この命を最後まで見届けてくださる、仏さまのお心の中にわたしは生まれ死ぬことができる。わたしを悲しんでくださるお心がありがたい。どんな命の流転だったか。わたしはなにも知らないが、今もわたしを悲しんでくださるお心がうれしい。わたしは一人ではない。一人で生きていても一人ではない。

 仏さまとはどんなお方か。どこにおられるのか。どうすれば仏さまにお遇いすることができるか。求める人に伝えたい。あなたの心の中で仏さまに遇ってほしい。仏さまのおられる場所が浄土だから、あなたの心の中が浄土になる。闇の心に光が入って光の国になる。「機の深信」とは自分が信じられる。仏さまに信じられていたことがわかって自分が信じられる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-14 10:14 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

二種深信

  「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。
  また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
  二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
  疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

  (教行信証・信巻「観経疏」引用)


 二種深信は信心の内容です。救われないと知る智慧はわたしの中にはない。わたしの中にないのだから「回向」という。救われないと知ることが救われたことである。はっきりしている。わたしの本心はどこまでも「この心のままで」救われたい。それは無理だと二種深信が教えている。救われないのはわたしの心、救うのは仏の心。わたしの心は地獄行きと決まっている。わたしの心が成仏するのではない。仏の心が成仏する。ここがはっきりするのが二種深信。仏の心が成仏する。だから「必至滅度」という。仏が仏になるのだから間違いない。それゆえ「他力」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-28 06:17 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

願作仏心と度衆生心

  浄土の大菩提心は
  願作仏心をすすめしむ
  すなわち願作仏心を
  度衆生心となづけたり

  ※「願作仏心」の左訓
  他力の菩提心なり。
  極楽に生まれて仏とならんと願え、
  とすすめたまえるこころなり。

  弥陀の悲願を深く信じて仏にならんと願う心を
  菩提心と申すなり。

  (正像末和讃)

  願作仏の心はこれ 
  度衆生のこころなり 
  度衆生の心はこれ 
  利他真実の信心なり

  (高僧和讃)

 われらは心に湧いては消えるだけの感情や思いを自分だと思い込み、心に執着しては心にすっかり縛られ、心に牛馬の如く使役されてしまっているではないか。執着するものにわれらは必ず縛られる。心に執着した結果、心が見せる物があたかも外に実在するかのように思っては外なる物に完全に支配されてしまっている体たらくです。すべての人生苦はここから来る。人の一生は縁によって生きる姿は変わっても、どの人生も「わたし」という夢をみて終わるだけの一生です。仏教は「わたし」という悪夢から早く醒めよと教えている。

 執着がない「涅槃」とはどんな心境か、その心境をわずかに垣間見る体験を「信楽」といい、この体験のときに「願作仏心」をいただくので、仏になるのに間違いがない「不退転地」に入るといいます。和讃にいわく「すなわち願作仏心を度衆生心となづけたり」。願作仏心は(信楽体験によりいただいた)「利他真実の信心」であるから願作仏心はそのまま「度衆生心」となる。願力の自然で信心の人は必ず他に智慧を与える。利他は仏になる自利のお育てであるから、仏にならなければ利他できないということではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-25 00:19 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

正定聚の位に住する

  一一 たとい我、仏を得んに、
  国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、
  正覚を取らじ。

  (必至滅度の願)

  しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、
  往相回向の心行を獲れば、
  即の時に大乗正定聚の数に入るなり。
  正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。

  (教行信証・証巻)

  信心獲得した時に阿弥陀如来の他力の発願廻向というものを成就するものであるが故に、
  それ故に造りと造る悪業煩悩を残る所もなく消滅せしめて下さる。
  そういう謂れがあるから、信心決定の一念に現生に於て正定聚の位に住するのである。

  我々煩悩具足の者が仏のさとりを開いたということはない。
  しかしながらもう仏のさとりは目前にある。成仏は目の前にある。
  往生が始まっておるが故に成仏は目前にある。それを必至滅度と言う。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 我というものは心に執着するところに成り立っている。執着がなければ心はただ起きては消えているだけの現象にすぎないが、執着はそこに我を妄想する。我というものはない。それを経験するのが信心です。信心獲得とは心への執着を離れる一瞬の、それも一度限りの体験で、その時、無我に触れたのです。生きるとは執着だから、身体がある限り執着する。執着する力がなくなった時が死ぬ時だ。生きている限り無執着の無我にはならない。ならないが無我を経験しているので仏に成るということがどういうことかは解っている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-18 06:26 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

仏智疑う罪深し

  22
  仏智の不思議を疑惑して
  罪福信じ善本を
  修して浄土をねがうをば
  胎生というとときたまう

  23
  仏智うたがうつみふかし
  この心おもいしるならば
  くゆるこころをむねとして
  仏智の不思議をたのむべし

  已上二十三首
  仏(智)不思議の弥陀の御ちかいをうたがう
  つみとがをしらせんとあらわせるなり
  愚禿善信作

 二十三首ある「仏智疑惑和讃」です。自力の信を他力の信と誤解している人への「うたがうつみとがをしらせん」親鸞のご親切です。仏法とは、自分の心、仏のお心、どちらを信じるか、要はそういう話です。「罪福信」とは(仏ではなく、仏を信じる)自分の心を信じる。自分の力で仏になれる。もともと自分の心が仏性だから仏のお助けは必要ない。自分のことは自分でできる。自分の心に触れて欲しくない。そんな心を「疑城胎宮」という。

 聴聞していながら仏も法も僧も知らない。善知識に遇いたくない。三宝に近づいて自分の心を壊したくないから「辺地懈慢」ともいう。小さな地下の暗い穴蔵の中に自分の心(本心)を隠して、本心を明るみへ出すことをひたすら恐れている。広々とした明るく自由なところへ出て来いと仏は呼んでいるが、無明の暗闇に慣れた目は明るい世界が恐い。いまだ信を得られないのだから、まこと、仏智疑う罪深し。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-16 06:02 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

普賢の徳に遵うなり

  天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
  修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
  広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。

  ①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。
  ②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
  ③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。

  (正信偈・天親章)

  ①しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、
  至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、
  ②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり。
  知るべし、と。

  (教行信証・行巻)


 ここに「本願力回向」の三つの働きが整理されている。すなわち、①功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。これは「往生」です。②蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむ。これは「成仏」です。③煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す。これは「利他教化地」です。①②は「往相回向」、③は「還相回向」とわかりやすい。真宗の教義では①は現生(わたしの生前)、②③は順次生(わたしの死後)とされている。煩悩の身で「②成仏」したとは言わないからです。しかし、それはあくまで「わたし」を基準にしている。

 わたしの身体は物質で出来ているから生死があるが、不生不滅の仏心に生死はない。本願力は永遠の働きであるから「わたし」の生き死になどまったく関係がない。よって、「③利他教化地」(還相回向)が「わたし」の生前であるか死後であるかなど(わたしにとっては)まったく無意味です。もし、わたしの称えた念仏を聞いて救われる人がいたら、それはわたしに念仏を称えさせた仏のお仕事であり、わたしの手柄などではないからです。「②速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、③普賢の徳に遵うなり」。こういうことはとても尊いことであるが、わたしの経験することではない。わたしは救われる身で救う身ではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-13 06:08 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

  一七 たとい我、仏を得んに、
  十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、
  我が名を称せずんば、正覚を取らじ。

  (第十七願・諸仏称名の願)

  一八 たとい我、仏を得んに、
  十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、
  乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。
  唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

  (第十八願・至心信楽の願)

  おおよそ誓願について、
  真実の行信あり、また方便の行信あり。
  その真実の行願は、諸仏称名の願なり。
  その真実の信願は、至心信楽の願なり。
  これすなわち選択本願の行信なり。  
  (教行信証・行巻)


  一人一人が称える念仏は第十八願の乃至十念の念仏であろう。
  その乃至十念の念仏は我等衆生の称えた念仏だから、
  その衆生が往生成仏することは勿論であるが、
  その行者が往生し成仏するのみならず、
  それがそのまま十七願の諸仏称名之願を成就する。
  諸仏称名之願の歴史的事実を成就して本願の教えがいつまでも滅亡しない。
  ただ教えが尊いから滅亡しないというのでなくして、
  その教えがまた衆生を教え衆生を育て衆生に信心を与え、
  信心から自ずから出づるところの念仏が自利利他する。
  その念仏が念仏の法・十七願の諸仏称名之願を完成していく。

  十七願あるが故に、我等は如来の本願の教えを聴聞し、
  また、お育てを受けて念仏を喜ぶような身に育って来、
  現生正定聚の位に住せしめて頂くのであるが、
  それに止まらずして教えを受けた人がそのまま善知識になる。
  自分は善知識だとは言わないが、無名の善知識。
  阿弥陀仏の本願の御法は、
  有名の善知識の力だけで無く無名の善知識の力になって来た。
  善知識は如来に等しい。如来に等しいから、如来と言うて差し支えない。
  諸仏如来の尊い精神を頂いておれば諸仏如来と等しい仕事が出来る。

  (津曲敦三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 十七願の諸仏が称える念仏を聞いて十八願の念仏が成就する。十八願の成就が有名無名の善知識をつくり、さらにまた、有名無名の諸仏が称える念仏を聞いて新しく念仏の行者が生みだされていく。無窮の救いの善循環です。救いの歴史をつくるのが南無阿弥陀仏です。色も形もない自然がこの世に南無阿弥陀仏となって現れ、人をつくり歴史となっていく。竹内先生は「命の鼓動」と言われた。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-10 06:13 | 真宗へのアプローチ | Comments(4)

智慧の念仏

  人は個人ではない。われを挙げて宿業の集積であり、内には一切衆生が蠢く。
  業は限りなく対立を生み出して内に無限の生死海を創造し、
  対立は常に自己をぐるりから孤立せしめて瞋恚の業火の止むを知らない。
  祖師はこれを難度海と歎き、無明の闇と悲しまれた。
  五濁の闇の自覚なき自覚が自己超越の願いとなり、聞法し求道するのである。


  しかるに念仏の功徳は自然に念仏するものの内観を深めしめる。
  念仏の智慧によって、自然にみずからの救われぬすがたを見せていただくのである。
  念仏しつつ自然に見出されるわれのすがたの、
  永遠に救われざるを信知せしめられる端的こそ、
  永永劫の迷いの業の流れの上に、
  生死を超えるという大転換の行われる不自覚の一念刹那である。


  われの救われざるを信知する、この信知は、もはやわれの力ではない。
  それはわれらの内に入りて純粋主体となり、無明の闇を照破する無碍光である。
  またそのひかりは内観の智慧の象徴である。


  (松原致遠著「わが名を称えよ」より)


 内観とは深く広い無意識の心の深層に降りていくことです。なにが見えるかというと、ふだんは意識したことのない自分の心が見える。わたしたちはふだん意識のつくる世界に住んでいて、それが自分の世界、自分という人間の全部だと思い込んでいるが、内観が深まっていくと見たことのない自分を見る。わたしたちは見たくないものを見ないことができ、それを無意識に行っているから、自分にとって都合の悪い、自分の心の浅ましさ、醜さ、卑怯、未練、本心を心の底に隠している。内観するとそれが少しづつ見えてくる。見えてくるが、それもほんの一部でしかない。本当に見えてきたらもう善人ではいられない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-14 19:42 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)

無生の生

  無生の生とは、
  極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、
  極楽の生は無生の生というなり。

  (蓮如上人御一代記聞書36条)

  後生は真実の生、永遠に死のない生、
  死のある生のもう一つ根源の所に、死のない生、
  そういう一つの根源があって、
  われわれの意識の表面には生死だが、
  意識の深い所に無生の生、生死のなき生
  --そういう生をば後生という。
  私どもには、生あるものに死はある、
  死はまぬがれることが出来ないという深い怖れと悲しみを逆縁として、
  本来無生、永遠に死なない--そういう生をば後生という。
  死を縁にして現れるから後生という。
  (後生の後という字には)背景という意味もある。
  本当の後生というのは仏の生でしょう。浄土の生でしょう。

 (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 わたしと他人と環境でできた意識という小さな各々別々の世界にわれらは住んでいる。意識は心のごくごく表面で、意識の下には無限の広がりと深さがあり、意識が決して届かない領域を無意識とも不思議ともいう。意識の底の底、意識の光の届かない心の深海に降りていく、これを聴聞という。われらがふつう内面といっている心は外面にすぎず、本当の意味での内面とは仏の心です。

 われらの意識野を深く超えたところ、人間の思議を超えた領域から届く仏の心をいただくと、われらが内面と思っている心は外面になる。不可称不可説不可思議からの仏の呼び声を聞いて仏のお心の中に生じることを「無生の生」(心の往生)といい、仏のお心を得て「得生」、不可思議の本願に心開かれていく姿を「願生」といいます。永遠に死のない生を得ることは命あるものすべての「志願」でしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-11 10:06 | 真宗へのアプローチ | Comments(0)