涅槃の境地に到達する

  涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。
  生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。
  無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。
  現生に於て涅槃という一種の境地を得る。
  つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、
  無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを
  教えて下さるのが浄土真宗の教えである。

  涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、
  どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。
  煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。
  それを現在の生活の上に経験することが出来る。
  それが仏からたすけられたということである。

  いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、
  現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、
  仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。
  そういうものであるが故に、
  いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。
  こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできない。出来ないのであるが、誓願の不思議によって「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことが出来る。すなわち、煩悩具足の身のまま悟りの境地(涅槃)に生まれさせようというのが弥陀の本願というものです。涅槃の境地を身をもって体験し、その体験を伝えてきたのが仏教の伝統です。量深師は「浄土真宗の教えの本当の精神である」と教えている。

 量深師の教えが尊いのは「現生に於て既に往生している」「現生に於て涅槃という一種の境地を得る」と教えてくれるからです。その具体的な中身を「どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない」と明らかにしています。念仏、聴聞に励んでいる人にとって目標となることでしょう。人生でなにを経験しようと永遠の時間である「涅槃の静かな心境」を経験することに勝るものはない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-22 06:07 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

浄土は精神王国である

  浄土とは何ぞや、浄土は精神王国である。
  心が濁っているから物という実体があると思うている。
  これを無明という。
  心の修行安心の拠り処を失うて堕落して物質の奴隷になっている、
  それを迷いの娑婆世界という。
  自分の力では成仏出来ない者のために浄土を立てて
  往生の道を建てて下されたのが如来の本願である。
  往生以外におたすけはない。
  往生という所に新しい生活、精神生活を開いて下さる。
  それを仏恩報謝の生活という。
  因と果は同時にある。
  異時因果ではなく同時因果と理解すべきものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「同時因果」とは現在と未来が同時である。信をいただいた現在に未来の浄土が開ける。現在を超えて現在するのが浄土である。だから娑婆は浄土ではないが娑婆を超えて娑婆を包んでいる。一方、「異時因果」とは現在に信心をいただくが往生は死後である。死後に浄土に生まれてから仏になる修行をする。現在にはなにもない。信の一念がない。なにもありがたくない。

 「おたすけ」とは信の一念に往生するから「おたすけ」という。往生するから成仏に間違いないとわかる。間違いないから心配がない。心配がないから成仏がもう問題にならない。「往生の道を建てて下されたのが如来の本願である」とわかるのは往生した証拠である。異時因果には証拠がない。証拠もなくて仏恩報謝と言っても意味がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-08 10:11 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

還相もまた"現在"にあり

  一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五章)

  南無阿弥陀仏の回向の
  恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には
  還相回向に回入せり

  如来の回向に帰入して
  願作仏心をうるひとは
  自力の回向をすてはてて
  利益有情はきわもなし

  (正像末和讃)

  往相と還相と、往相は現在にあり、還相は未来にあるとー
  こういうふうにありまするけれども、そうしないと筋道がたたないものだから、
  還相を"未来"におくと、そういうのが『歎異抄』のお言葉でございます。
  けれども、『正像末和讃』をもって照らしてみるというと、
  還相もまた"現在"にありー如来の回向が本であります。
  如来の回向という方から見るというと、
  往相も還相もみな南無阿弥陀仏の中にあるのであって、
  そこに矛盾も撞着もないものであると、
  『正像末和讃』へ来まするとそういうふうに教えてある。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 教えがあっても救われた人がいなければ誰も救いを信じない。救われた人の喜ぶ姿にわれらは仏のお力を見るのである。救われて喜ぶことがわたしの「往相」であるなら、わたしの喜ぶ姿がそのまま誰かの「還相」となる。わたしが喜ぶのも、わたしが喜びを語りだすのも、いずれも仏の御はからいである。仏の御はからいだから往相も還相も"現在"である。弥陀仏は(現在を超えて)「現在」の仏だからである。わたしは(現在を超えて)「未来」の仏であるから、「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と言ったのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-24 06:12 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

  未来未来と言うのは、我々の意識を超えた所を未来という。
  意識の世界にあることをば現生とはっきり教えて下さるわけである。
  だからして成仏は未来だと言うても、現在になにもないというわけではない。
  すべて未来というなら証拠がない。
  生きている中に往生の願いが成就しなければ成仏の証明がない。
  往生の現在によって成仏の未来を証明するというのでなければならぬと私は思う。

  後生というのは死んでから先のことだと昔から考えて来たのであろう。
  併し仏法の不思議によって、生きている中に後の世が現れる。
  それで、親鸞聖人の教えが現生正定聚が眼目である。
  後生というのは精神世界、魂の世界である。
  真実信心を獲れば浄土を感じる、そういう眼が開いて来る。
  生きているうちにそういう眼が開ける。浄土は心にある。
  如来の本願の力によって信心の眼を開かして頂くと
  浄土の荘厳というものを自分の生活の上に感得することが出来る。

  (津曲敦三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 「意識を超えた所を未来という」「死んでから先のこと」ではないという量深師の教えです。過去・現在・未来と流れて行く先の「未来」ではなく、現在を超えた現在としての未来、現在の深さとしての未来を「後生」というのだと教えてくれている。今でも新しい、決して陳腐にならない教えだと思う。歎異抄・第十章に「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とありますが、我々の意識の外、不可思議の領域から届く願力自然の働きをただそのままに頂けというのでしょう。

 竹内先生はよく「未来は明るいか」と言われましたが、未来がはっきりしたかというのでしょう。未来に光がある。未来から現在の闇が照らされる。照らされるとは、浄土から娑婆が見える。意識を超えたところから意識が照らされる。この不思議の仏智をいただくと智慧を回向して救わんとされた本願のお心を感じることができる。これを「後生の一大事」という。死んでどこぞに生まれるという話ではない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-09 06:30 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

善人は偽善者である

e0361146_22473001.jpg  善人は偽善者である。悪人は露悪者である。
  偽善者に甘んずるか露悪者に甘んずるかどちらかである。
  偽善者と露悪者の中間はない。
  「私は露悪者でございます。まことに申しわけございません」と
  頭を下げた方が法然・親鸞・蓮如、近くは清沢満之である。
  露悪者が安心して居れる場所として
  阿弥陀如来が願心荘厳して下された世界を浄土という。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 世間向けの顔はみな「善人」である。余所行きの顔で社交するから大抵はみな「偽善者」である。偽善と偽善、偽善とわかりあって生活する場所が「世間」である。悪を許さない建前で窮屈な世界である。対するに、仏の御前に出たらみな「悪人」である。わが家で寛ぐときはみなだらしない。仏に隠し事は通じないからみな「露悪者」で平気である。足を投げ出してのびのびと、実家に帰った気持ちで、自分が自分でいられる場所を「浄土」という。仏のお心を浄土といい、浄土の生活を「往生」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-02 06:28 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

往生は人生の修行である

e0361146_17481365.jpg  あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
  心を至し回向したまえり。
  かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。
  唯五逆と正法誹謗とを除く。

  (第十八願成就文)

  「得」は、うべきことをえたりという。
  真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。
  「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。
  おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、
  正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。

  (一念多念文意)

  往生は生きているうちに往生する。
  成仏はこの命が終ってそうして新しい命で成仏する。
  成仏というのは滅度ですからね。
  朝から晩まで人間の生活は往生の生活である。
  往生ということに一点の疑いのない、そういう生活でありましょう。
  純粋往生の生活、決定往生の日暮しをさせていただく、それを、正定聚という。
  正定聚の人は必ず成仏する、と。
  往生は心を養うのでございます。往生は修行であります。
  往生は人生の修行であると私は理解しているのであります。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 量深師には学問の前に信仰がある。仏のお心の中に生まれたという体験がある。いま現に、お育ていただいているという確かな自証がある。だから、「往生は人生の修行である」とはっきり言える。ただの学問なら硬直する。退屈だ。仏のお心をいただけば心は明るく、軽く、柔らかくなる。自然にそうなる。自然にそうなるから必ず仏になる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-12 06:33 | 曽我量深師の教え | Comments(2)

宿業とは本能である

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

  よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。
  悪事(あしきこと)のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。
  故聖人のおおせには、「兎毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、
  宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。

  (歎異抄・第13章)

  わたくしは、宿業について久しく問題にしていたのであるが、
  数年前ふとしたところで、宿業は本能なりと感得した。
  宿業は人間の理知によって知られるものではない。
  生まれながらにして与えられている本能である。

  人間は、理知で宿業を知ろうとしても知られない。
  人間ぜんたい、自己ぜんたいが宿業である。宿業の主観である。
  だからして宿業の中に自己がある。

  それで人間は宿業を知らしてもらった時は、
  すでに仏の本願中にある。大慈悲心のうちにある。

  宿業を感じて絶望するというも、運命論は人間の絶望である。
  しかるに宿業はそうではない。
  宿業は如来の大悲のお光にてらされて、宿業を知らしていただく。
  ゆえに宿業を知らしていただくことは、宿善の開発である。

  だから、すでに如来の大悲光明の中に宿業を感ぜしめていただいたのである。
  すでに宿業は一つの回心である。回心懺悔である。
  だから、宿業は一つの大きな大慈悲心のうちにあって、
  しかも大慈悲心を開顕する一つの門である。

  (曽我量深著「歎異抄聴記」より)


 「歎異抄聴記」はこの部分を読めばいいというくらい大事なところで、「宿業」ということがわかれば「信心」がわかる。親鸞は自著で「宿業」という言葉は使っていないが「そくばくの業をもちける身」と唯円が書きとめた。生まれた時に得た「この身」は過去の無量ともいうべき迷いの経験が情報として蓄積された身であり、世々生々、親となり子となり、命と命が無量に混じり合ってできた身であり、われらはいただいたこの身に過去の迷いの経験の総体を「一切衆生」として抱えている。このことを親鸞は「そくばくの業をもちける身」と表現している。

 よって、われらの身口意の三業も、すべてこの宿業から出てくるのであり、われらに善悪を選択する自由はない。それが「兎毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」という言葉になっているのです。われらに行動を選択する自由はないが、「すべては宿業」と受け入れるときに、心の自由を得る。この身の事実を事実と受け入れ随順する、これを「信心」といい、親鸞は「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と述懐している。親鸞は宿業を見たのです。宿業を見た人は仏になる。


 南無阿弥陀仏

 mikuちゃんの日記
 棟方志功の往相廻向

 聞其名号信心歓喜乃至一念
 宿業は本能なり1
 宿業は本能なり2
 宿業は本能なり3
 宿業は本能なり4
 宿業は本能なり5




by zenkyu3 | 2017-01-08 06:23 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

  ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、
  久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生(十九願)を離る、
  善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生(二十願)の心を発しき。
  しかるにいま特(まこと)に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、
  速かに難思往生の心を離れて、難思議往生(十八願)を遂げんと欲(おも)う。
  果遂の誓い(二十願)、良(まこと)に由(ゆえ)あるかな。

  (教行信証・化身土巻)

  御開山聖人は法然聖人にまみえられた時に信心決定されたのだろうが、
  それに違いないが、その信心が本当に完成したのは、二十願によって完成した。
  真実のための方便あって、方便ある故に、その方便によって真実が完成する。
  真実の信心を頂戴してもなかなか完成しない。
  果遂の誓あって、どのような艱難に際してもへこたれない。
  親鸞という人間が完成したというのは果遂の誓あって人間が完成したと感謝されて、
  化身土巻に三願転入ということがあるわけである。

  若不生者の誓は母の愛。果遂の誓は父の愛。厳しい愛である。
  様々の逆境に処して鍛え上げてゆくのが二十願というものである。
  父と母の二人によって信心を決定し信心を鍛え上げられる。
  逆境に処して鍛え上げてゆくといえば自力だが、
  他力がなければ自力を鍛え上げるわけにゆかぬ。
  自力がなければ他力を鍛え上げることも出来ぬ。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 このような話はどなたからも聞けない。量深師がご自身の信仰の全生涯を語ったもののようです。人が人になる道、人として成熟、完成して行く道を示していただいている。信を頂いた時は針の先ほど光である。それでも光は光、闇の中に一点の光でも見れば、歩んで行く方向、未来がわかる。しかし、初めて頂いた信は微妙で、また弱々しく、この信の一念は本物なのかと問い続ける厳しい道のりが続くのです。

 とくに、如来よりいただいた信心を「自分の手柄」にしようとする自力の執情と闘わなくてはならない。仏と対面した信の一念に立ち返り立ち返り、信がより確かなものになっていきます。煩悩はそのままに、煩悩に影響されなくなっていく、これが「往生の生活」です。よって、「果遂の誓い、良に由あるかな」の親鸞の言葉には、信が完成した喜びが輝いている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-15 07:43 | 曽我量深師の教え | Comments(8)

  釈迦弥陀の慈悲よりぞ
  願作仏心はえしめたる
  信心の智慧にいりてこそ
  仏恩報ずる身とはなれ

  (正像末和讃)

  真宗の学問の方は、行によって信を立てるというが、
  行が元ではない。信が元である。
  誰でもが信を立て信を相続してゆくために、
  行というもの、大行というものを建立なされた。
  だから、信が元である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 念仏を“唱えて”智慧の眼が開くなら念仏は呪文です。念仏は“唱える”のではなく“称える”と書くのは、救っていただいたお方に感謝し、その尊い御名を称(たた)える行為であるから称(とな)えるというのです。それゆえ「称名念仏」というし、信の一念に生じた智慧から出てくる念仏なので「智慧の念仏」という。また、智慧の念仏を第十七願の「大行」といい、大行の念仏を称える人を「諸仏」という。

 だから、まずは救われたという喜びがなくては仏恩報謝の念仏は出てこない。信心を獲たら念仏は自然に出てくるし、救われた時のことを憶い出してはまた念仏される。これが一生続くのです。量深師が「信が元」とはそういうことだろうと思う。では、どうしたら信心が獲られるか。蓮如は「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」(御一代記聞書193)と言っている。どのように聞くかといえば、「このままの心で救われないのはなぜか」と聞くのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-14 09:47 | 曽我量深師の教え | Comments(0)

e0361146_14092791.jpg  信心よろこぶそのひとを  
  如来とひとしとときたまう
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり

  (浄土和讃)

  釈迦弥陀は慈悲の父母
  種種に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり

  (高僧和讃)

  信心の智慧は、無生法認をさとるのが信心の智慧である。
  生死は身体にある。われわれの心は無生無滅のものである。
  心が物の奴隷になっていると、心も身体と同様に生も死もあるが、
  心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、
  それを無生法認という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 われわれの肉体は物質である。肉体を自分だと思って肉体に縛られている人は肉体が滅べば心も死ぬと思う。しかし、人類発祥の昔から、皮膚の色や性別、特徴は違っても、一個一個の肉体には「仏性」という仏様の心が埋め込まれている。何百億、何千億という数の肉体が生まれ死んでいったが「仏性」は一つである。これからも無数の肉体が生まれてくるが「仏性」は永遠に一つで、その働きは変わらない。この肉体に深く埋め込まれた「仏性」を呼び覚まそうというのが弥陀の本願です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-08 20:37 | 曽我量深師の教え | Comments(0)