信心を捏造する

  二七、或る時一蓮院師を招きて、酒杯を傾けながら、仰せに。
  凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る故、
  其の心中は我がこしらえもの也。
  教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。
  信心と云うことは、聞其名号信心歓喜の八字を我が腹とするばかりじゃが、
  そう思う人の少ないのは、甚だ残念なり。
  一蓮院師曰く。ただ仏の力お一つで、助けて下さると信ずる外には、
  聞其名号のいわれはない、と聞いて居ります。
  師曰く。それでよし、それでよし。

  (香樹院語録)

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。
  これを「聞」と曰うなり。
  「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
  「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。

  (教行信証・信巻 )

 凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る。教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。真(まこと)の心が獲られないのだから誰も違うとは言えない。仏法聴聞といいながら、教える側も聞く側も信心を捏造することばかりにかかわり果てている。信心は「本願力回向」だから向こう側から来る。

 いただくばかりだから、信心をいただく器を空にして待たなくてはならないのに、理屈で心がいっぱいになっている。空にならないから信心がいただけない。聞き方が根本的に間違っている。心の器を空にするのが仏法聴聞です。信仰は理屈ではなく事実に立つ。嘘は嘘。嘘から「歓喜」は生じない。理屈は嘘だから理屈の勉強はやめて、ただひたすら自分の心を見る。心の現実を知るのに勉強はいらない。日常生活すべてがあなたの心の現実を教えている。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。仏さまはとうにあなたの心の現実を知っている。あなたが仏さまが知っているようにあなたの心の現実を知れば、あなたにかけられた仏さまのお心が知れるというものだ。これが疑心なし。事実を事実と受け入れる謙虚さが信仰の基礎になる。信仰は事実に立たなくては疑心が晴れるとはならない。捏造された理屈の信心では疑心も晴れず「歓喜」も生じない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-20 06:10 | 聴聞の実際 | Comments(0)

仏との対話

e0361146_16295888.jpg  二三〇、仰せに。凡夫のこころは浄土参りの種にはならぬ。
  信決定の時凡夫の心を消して、如来さまの御心一つにして下される。

   (香樹院語録)

 人と生まれたことは苦悩である。あなただけでない、親も兄弟も、教師や仲間、親族、周りの者みな暗い心を内深くに隠して生きている。隠していることも知らずに苦悩している。だから、あなたの苦悩を最後まで聞きとげてくれる人はいない。聞けば聞いたことを利用するのが人である。あなたもそうするに違いない。この世の利害から自由な人などいないから、人ごとにあなたを利用する。あなたの苦悩を正しく受け入れ、最後まで聞きとげてくれるのは仏さまだけである。

 仏さまと一緒の生活が信仰である。仏さまはどこにおられるか。仏さまはあなたの心の奥底におられる。仏さまと心通じあい、対話できるように、あなたの心の奥底に降りていく。そのように信仰するのです。仏法聴聞に勉強は必要ない。知識もいらない。南無阿弥陀仏と称えて、自分の心を見せてくださいとお願いするのです。自分の心が見えたら、それが仏さまと心が通じたことです。仏さまと心が一つになった。悩みは人に聞いてもらうのではなく、仏さまに見ていただくのがよい。それが仏法聴聞、南無阿弥陀仏の生活です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-19 06:20 | 聴聞の実際 | Comments(2)

助けたまえ

e0361146_15504971.jpg  二二三、或る時の仰せに。
  たのむ故おたすけじゃとは思うなよ。
  助けたまえと、弥陀をたのむのじゃ。

  (香樹院語録)     


 「おたすけ」を期待して「たのむ」となれば、それは計算である。人知は計算する。計算する心から「たのむ」心は出てこない。「たのむ」心は仏からの回向である。なにから「助けたまえ」か。計算高い人間の心から「助けたまえ」である。計算しても計算しても立ち行かない境遇にしてくれたのは仏のお慈悲である。南無阿弥陀仏を称えようとする心も如来回向である。人知は闇、光は人知の外、不可思議から来る。すべては仏の御はからいである。ただいただくばかりである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-06 15:43 | 聴聞の実際 | Comments(0)

信心を得るが肝要なり

  二一八、江州の嘉右衛門、いたく未来のことを苦しみ、
  暑中に越後まで参り汗を拭い拭い師に謁したるに、
  師の曰く、体の踏み出しは出来たが、まだまだ心のふみ出しが出来ぬ。
  マア勝手の方え行って、腹の支度でもした がよい、と。
  嘉右衛門身のおき処なく、未だ後生を思うことの薄きに驚き愧じ入ること甚しかりしと、
  自ら語られき。

  二一九、仏法を聞きわける人はあれども聞きうる人甚だ稀なりとありて、
  聞き分けるが所詮でない。聞いて信心を得るが肝要なり。
  然るに、人は聞き分けるまで骨折れども、わかれば途中にて止めるもの多し。
  かようにては信心は得られず。
  ただ分かりたさを目的にして、その上に聞き得ることを止める人は邪見なり。
  故に、弥陀の名を聞きうるまで聞かねばならぬと合点すべし。

  (香樹院語録) 
 

 法を心の外に置いて知識を学ぶように聞法する人がいる。このような人は根本的に信仰がわからない。このような聞き方をすれば五十年聞いても信心はわからない。心に踏み込んで心に隠している病根を暴き出すようにしなければ心の治療にはならない。それゆえ仏法の知識はむしろ邪魔で、心を照らすように聴聞しなくてはならない。機の深信、内観の念仏が聞法の基本と知るべきです。

 心の深海に降りて行けば見たこともない醜い心を見ることになる。そうすれば少しは信仰に近くなる。そうなると自分の心との凄絶な闘いになる。自我が崩壊する過程に入ったので自我は生き残りをかけてあなたを騙しにかかる。「その道は間違っている。自分を見失うぞ」と。あなたの心の声は郡賊悪獣の声、悪魔の声ですから、うろうろと相手にしてはいけない。

 善知識の言葉を灯りとも頼み、仏の声に耳傾けて、仏の救いだけを信じなくてはならない。「聞いて信心を得るが肝要なり」。聞法歴は長く、それらしいことを得々としゃべる年配者を見ると、聞き方を間違えたまま一生を終えようとしていると思う。信仰は学問ではないのだから、知識の缶詰をたくさん持っていても開けて食べなくては腹はふくれない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-05 19:28 | 聴聞の実際 | Comments(0)

心に病む所あり

  一七九、越後塔の浜の一女、心に病む所あり。
  京に上りて師に謁し、この後生どうしようどうしようと、涙ながらに尋ね申せしに、
  師はただ、鶴の脚は長いなり、鴨の足は短いなり、その儘の御助けじゃ。
  との御一言にて、つと座を起ち退き給えり。
  女本意なく思いながら是非なく帰路につき、終日終夜、右の御言葉を胸に繰りかえせしが、
  何時となく大悲の光にほのぼのと暗を離れ、
  ああこの御恩どうしようどうしようと云いながら家に着きぬ、と。

  (香樹院語録)    

 越後塔の浜の一女、心に病む所あり。さて、悩み悩みと騒ぐが、いま起きていることが気に入らない。そういうことでしょう。ちっちゃな心に大きな現実が収まらない。小に大は収まらない。当たり前だ。悩みといえば、さぁ大変だとなるが、たったこれだけのことだ。思い通りに行くと誰が言った。自分の心は悪くなくて現実が悪いと愚図り通す。人が悪い世間が悪い。これは救いようのないひがみ根性だ。

 そのことがわからない。現実はわれらの好き嫌いに関係なく起きている。鶴の脚は長いなり、鴨の足は短いなり。長いは長いなり。短いは短いなり。愚痴を言えば切りがない。諸行無常、有為転変に定めはない。なにか偉そうにしているが、われらは明日死んでも文句のいえない身の上じゃないか。香樹院師はどう言ったか。どんな身の上であろうと、そのままで救われてこい、と。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-01 06:45 | 聴聞の実際 | Comments(0)

仏祖の御冥覽を仰ぎ

  二〇六、飛騨国郡上組十二ヶ寺の御聞調の時、
  了因寺曰く。我慢、勝他、名利ゆえに、
  家内門徒も聞きとり法門ばかり致させをり候いしが、
  今日こそは心に徹致仕り候間、安心受得の上、
  家内門徒には報謝の実意より申し伝え、
  御趣意に背かぬようと心がけたく存じ候。
  仰せに。今迄の名利我慢は凡夫の妄念妄想故なり。
  後は仏祖の御冥覽を仰ぎ、我が心を御前にひらき出して、
  愛欲貪欲やめよとはのたまはぬ。
  この煩悩のなりで喜べよの大悲を仰ぎ、
  先づ我が身が仏法三昧になるべし。
  又名利は如来よりよいやうに、
  飢えも饑えもせぬようにし給うべし。

  (香樹院語録)     


 「我が心を御前にひらき出して」とは具体的で、わかりやすい。すなわち、心を露(あらわ)にして仏に我が心をそのままを見ていただくことですから、これは「懺悔」です。「愛欲貪欲やめよとはのたまはぬ」とは煩悩即菩提、そのままを救うのがお誓いであるから、われらは心を直す必要がない。心とはこの身をいただいたときに身についてきた「過去世の宿業の集積」であるから、この身からなにが出てくるかはわれら凡夫にはわからない。

 だから「不思議」という。出てきたものはあるから出てきたのであり、すべては宿業であるから、われらにはただ事実として受け取るだけしかできないのである。この身の事実を素直に受け入れる、事実に随順するところにかえって心の自由が開ける。事実を事実と受け入れるところに事実を超える道がある。これを「横超」といい、「凡夫の妄念妄想」を全体として見る「仏智」をいただくのである。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-26 06:38 | 聴聞の実際 | Comments(0)

疑網の関所

  二二五、江州草津合羽屋に対せられての仰せに。
  往生を願うについて、二の関所がある。
  一には世を捨てて願い、二には疑網をすてて願わねばならぬ。
  この二を捨てねば極楽まいりは出来ぬ。
  初めの世をすてて願うと云うは、
  望みさえあれば随分世をすてて願うと云う人がある。
  しかし後の疑網の関所には、番人がいる故我が料簡ではゆかれぬで、
  我が力すてて唯仏智のおはからいで往生させていただくのじゃ。

  (香樹院語録)


 一の世を捨てる。これは心の堀の外のことだから比較的容易にできる。形だけなら念仏も称える。形は心に影響しないから真似ならなんでもできる。二の疑網を捨てる。これは我と頼む心の本丸だから容易にできない。心のあり方を問われる。触って欲しくない心の柔らかい部分に触れてくる。これは形ではすまされない。本気である。真剣である。命懸けである。だから、みな逃げる。念仏は称えても心の本丸には踏み込ませないぞと頑張る。

 疑いの心はいう。そもそもなぜ心が悪いか。悪いなら正せばいいではないか、と。このままの救いならこのまま救ってくれよ。それが仏のお慈悲だろう、と。これは二十願の心だ。信仰は事実である。道徳でも規範でもない。信仰に、どうしろ、はない。いまの心をありのままに映す鏡が仏のお心である。心が見えるようにしてくれるのが智慧で、見えれば迷わない。救われない心が見えることが救いである。智慧を与えて見えるようにして救うのが仏のお慈悲である。

 心が見えたら、見えたことが仏である。しかも、大切なことは、見えても見えなくても仏のお心の中であるから、見えたらいい、見えないから駄目ではなく、見えるも見えないも、それが事実だということです。汝自身を知れ。知らないから苦しみを受ける。小さな我を満足させることは容易ではない。そんな我に縛られて生きる人生も容易ではない。仏を信じることは容易であるが、我を捨てることが容易でない。我はあなたを手放さないからだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-24 06:14 | 聴聞の実際 | Comments(0)

  一四〇、京都岡崎御坊にて御法話の後、江州西乗寺の住侶、
  重ね重ね聴聞申して帰国せんとしたるも、何となく後髪引かるる心地してければ、
  草鞋を穿ちたるままお庭え回り、お座敷の椽下に跪きて云うよう、
  恐れながらお尋ね申します、私はかように年をとりましても、
  実に実に哀れな心中でござりまするが、死ぬまでこんなものでござりますかと。
  その時師は御酒を召しながら、それじゃで他力じゃないか。 と仰せられければ、
  老僧涙を流し、小躍りしながら帰途につきぬ。

  (香樹院語録)


 「私はかように年をとりましても、実に実に哀れな心中でござりまするが、死ぬまでこんなものでござりますか」とは懺悔である。懺悔は仏の心に映った我のありのままの姿である。仏のお心の中にあればこその懺悔であり、この老僧、仏のお心の中と気づかなかった。それを知っていればこそ、香樹院師は一言、「それじゃで他力じゃないか」と。「老僧涙を流し、小躍りしながら帰途につきぬ」。信が開けた一瞬です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-22 19:47 | 聴聞の実際 | Comments(0)

得て見やれ

  二八四、江州の嘉右衛門、田植えの最中にし切りに後生を苦にし、
  田の仕事も打ちすてて伊勢国御巡回先え馳せ参じ、
  一言の御教示を蒙りたしと願いしに、
  急げばまわれと云うことがあるぞよ。との仰せなりき。
  其の後ある時、恐れながら信心の得られし味を尋ね申したれば、
  師暫くして仰せに。得て見やれ、その味は知れる程に。

  (香樹院語録)   


 ここでの香樹院師は答えが出かかっている生徒にあえてヒントを与えない先生のようです。江州の嘉右衛門のように、わたしも疑問が起きると仕事を抜け出して同じ新宿区内の先生の住居へ走って行った。先生の事情などまったく考えていなかった。びっくりした顔をしても、なんだとも、どうしたとも言わない。先生はいつだって聞いたことに丁寧に答えてくれる。

 当時のわたしはわかりたい一心でまったく余裕がなかった。竹内先生でなかったら、わたしはどうなっていたろうか。先生の事情などまったく考えていなかった。江州の嘉右衛門のように、わたしも一度だけ「そんなに急ぐことはない」と言われたことがある。「得て見やれ、その味は知れる程に」。香樹院師、もうじき信が開けると見ておられたのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-21 06:48 | 聴聞の実際 | Comments(0)

聞の一字

  二八三、浄土真宗の法門は、聞の一字をもって他力をあらわし給うなり。
  弥勒に先立ちて成仏するは、聞の一字にあり。
  『大経』に「聞其名号」とあるは、凡夫の知恵や分別にて聞きわける聞にあらず。
  我れ知りわけ聞きわけたるを聞いたるように思う故、増上慢を起すなり。
  因縁さえあれば五つ六つの子供でも、聞きわけらるるが浄土真宗の御法なり。
  信心を得たるものは却って聞きたく思えども、
  うかうかして居るものは早や心得顔になりて居る也。
  信心は体の如く、聴聞は食物の如く、称名念仏は息の如し。
  右、時々仰せられき。

  (香樹院語録)  


 「聞く」というのは仏のお心の中にある「わたし」の姿です。「わたし」が全否定されている。「わたし」が自己主張しない。しかし、「信の一念」を経験すると「得た」という驕りが生じる。「得た」という思いに執着して仏のお心の外に転落する。聞いた信心を知識にして「わたし」の持ち物にする。竹内先生は「仏を手ごめにする」と仰った。聞いた「わたし」が仏より偉い者になるのです。信の一念を経験しても信がはっきりしない間は何度も何度もこれをやる。十八願を知っても二十願の自力に再び転落する。五年、十年、何度も何度も転落する。

 転落するが、一度経験した「信の一念」に何度も何度も立ち返り、仏のお心の中の自分を見せていただく。自ずと懺悔され、さらに喜びが深まっていく。これが信相続の内容です。信がわからなくなったときは辛く、本当に恐ろしいが念仏が救ってくれる。「果遂の誓い(二十願)、良(まこと)に由(ゆえ)あるかな」(教行信証・化身土巻)。「聞く」位置に謙(へりくだ)って念仏すれば「得た」という驕りも自然に落ちて、信心がさらに深まっていく。これを「聞く」という。一度信を獲たら後は何もないということではない。信の一念に行が確立して、本当の聴聞が始まるのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-20 06:39 | 聴聞の実際 | Comments(0)