うその念仏

  三七、江州草津の木屋にて、女按摩、
  香樹院師を按摩しながら、念仏したるに、
  汝よく念仏せりとの仰せなりしかば、按摩はじ入りて、
  うその念仏ばかり申して居りますと答う。
  師の仰せに、おれも、うその念仏ばかりして居る。
  こちらはうそでも、弥陀のまことで御助けじゃぞや。 と。
  女倒れて悲喜の涙に咽びぬ。
 
  (香樹院語録) 

 自分の心を"うそ"という。仏のお心を"まこと"という。はっきりしている。うそがなにを言おうとうそ。うそがなにを考えようとうそ。うそとうそが跋扈する世間もうそ。うそからまことは出てこない。はっきりしている。うそのわたしが称える念仏はうそでも、称えさせようのお心はまこと。念仏で救われるのではない。称えさせようのお心で救われる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-28 10:21 | 聴聞の実際 | Comments(2)

弥陀をたのむとは

  一五六、たのむものを助くるとの仰せを聞いて、
  左様ならば私はたのみますさかい、
  御助け下されませの心ではない。
  たのむと云うは、不思議の仏智を信ずること故に、
  かかるものを御たすけぞと深く信ずることじゃ。
  各々は、これが深くたのむのじゃの、
  是れが緊とすがるのじゃのと、
  訳きくことばかりが細かな道理と思えども、
  それよりも内心の味いを透した心味を云うのが、
  一番に細かな道理じゃ程に。

  (香樹院語録)  
 

 見たことも聞いたことも触れたこともないのに「信ずる」「たのむ」などということはない。われらのように疑い深い者が知らないものを信ずるなんてことは絶対にない。「たのむ」のはすでに救われたからたのむのだし「信ずる」のは信じられていたと知ったから信じるのです。この反対ではない。信じたらわかるのではなく、わかったから信じる。

 なにがわかったか。どうわかったか。「救われない」とわかった。「救われない」と仏さまが教えてくださったからわかった。だから、救われないとわかったことが救われたこと。救われないと教えて救うのが仏さまのお慈悲というものです。自分でわかろうとしてわからないのが自力、心を素直に教えていただくのが他力。だから「聞く」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-27 12:25 | 聴聞の実際 | Comments(0)

  二四四、天保五年十月十日の夜なりき。
  或る人、師の御前に出でて、うつくしく領解を述べたれば、仰せに。
  述べた口上には間違いはないが、その言葉を便にするな。
  言葉さえ云いならぶれば、信心を得たものとするのではないか。
  それでは他力回向とも、仏智より獲得せしむるとも仰せらるる所と相違する。
  御教化の御言葉に隙のない様になったが実の信心じゃと思うても、
  それでは言葉は他力でも、心が自力の執心じゃ程に。

  (香樹院語録)  

 仏のお心を伝えたい。得たという確信があるからこそ、仏のお心がどういうものか、どのようにすれば信を得られるかを伝えたい。しかし、いくら言葉にしても言葉はどこまでも言葉、経験そのものではない。聞法の場では、聞くのは仏のお心であって言葉ではない。言葉が伝えようとしている仏のお心を直感しなくてはならない。たとえば、水を求めてコップを渡されたら中に水が入っていると思うものである。あなたが求めているのはコップではなく水である。渡されたコップに水が入っているかどうか、よく確認したほうがよい。法を説く人に伝えるものがないからである。この法語には「文字や言葉の穿鑿ばかりでは御慈悲は味えざる也」という長いタイトルがついている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-15 21:46 | 聴聞の実際 | Comments(0)

我が料簡を捨てる

  二二五、江州草津合羽屋に対せられての仰せに。  
  往生を願うについて、二の関所がある。
  一には世を捨てて願い、二には疑網をすてて願わねばならぬ。
  この二を捨てねば極楽まいりは出来ぬ。
  初めの世をすてて願うと云うは、
  望みさえあれば随分世をすてて願うと云う人がある。
  しかし後の疑網の関所には、番人がいる故我が料簡ではゆかれぬで、
  我が力すてて唯仏智のおはからいで往生させていただくのじゃ。

  (香樹院語録)

 我が料簡を捨てる。無我ともいって、これが仏教の眼目でしょう。我が料簡で生きていけると思ったのに我が料簡では立ち行かなくなった。そこで我が料簡を建て直したくて仏教を学ぼうと思い立ったのでしょう。しかし、いくら学んでも仏教がわからない。やがて飽きてしまう。我が料簡を建て直したところで、いずれまた行き詰まる人生ではありませんか。仏教は我が料簡を捨てなさいというのだから、我が料簡を立て直そうとして聞いても、そもそも向いている方向が西と東ほど違う。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-14 22:30 | 聴聞の実際 | Comments(0)

無宿善の機

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  五八、『御文』に「無宿善の機は力及ばず」とあるは、
  一向きかずに地獄へ堕つるを無宿善とはのたまはず。
  聞いても聞いても驚かず、地獄へ堕つるを無宿善と云う。

  (香樹院語録)

 心の内側を見ることができなければ信仰にはならない。心が内側に向かない人を無宿善というのでしょう。仏は一人一人の心の中におられるのだから、外に仏を求め回る必要はないし、自分の心を観察するのに知識もいらない。信仰とは自分の心の奥底に降りて行く。光も音も届かないな孤独の深海に降りて行く。そこで仏に出遇う。仏に遇うか遇わないか、それだけが信仰である。仏は救うと誓っておられる。仏に遇わないのはあなたが遇いたいと思っていないからでしょう。他に理由はない。わたしが仏を見ているのではない。仏がわたしを見ているのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-09 23:28 | 聴聞の実際 | Comments(2)

自分の心を観察する

  六九、江戸淺草御坊にて、安心のことに就き、
  僧侶より何れが正しきや正しからざるやを、
  御尋ね申し上げたれば、仰せに、
  褄の上り下りは、着物着た上のことじゃ。
  裸体の乞食に其の議論はないぞ。
  との御一言にて、みなみな感じまいらせぬ。

  (香樹院語録)

 信仰とは仏に遇う。仏とは自分が見えること。対象ではない。自分を映す鏡が仏。鏡は映すものを選ばない。映すものを歪めない。ありのままに映す。自分の顔は自分には見えないのだから、自分が見えたら見えたことが仏である。それ以外に仏はない。自分が見えないから迷う。自分が見えたら迷いようがない。見えるようにして救うのが仏のお慈悲である。だから、自分が見えたら、それが仏である。

 では、仏に遇うにはどうしたらいいか。「仏はわたしをどう見ておられるか」と、こればかり寝ても覚めても一日中これだけを考えて暮らす。聴聞すると知識や理屈が増えて困る。仏に遇うのに知識はまったく不用で、むしろ邪魔だ。それよりも、仏の視線の先の自分とはどんなものであるか。仏のお気持ちになって自分の心を観察することである。教義の勉強は信心をいただいてからする。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-01 23:51 | 聴聞の実際 | Comments(0)

信心を捏造する

  二七、或る時一蓮院師を招きて、酒杯を傾けながら、仰せに。
  凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る故、
  其の心中は我がこしらえもの也。
  教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。
  信心と云うことは、聞其名号信心歓喜の八字を我が腹とするばかりじゃが、
  そう思う人の少ないのは、甚だ残念なり。
  一蓮院師曰く。ただ仏の力お一つで、助けて下さると信ずる外には、
  聞其名号のいわれはない、と聞いて居ります。
  師曰く。それでよし、それでよし。

  (香樹院語録)

  しかるに『経』に「聞」と言うは、
  衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。
  これを「聞」と曰うなり。
  「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
  「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。

  (教行信証・信巻 )

 凡そ誰れでも我が心中をこしらえる事にかかりて居る。教える人も唯理屈ばかり教えて、心中を造ることに骨を折る也。真(まこと)の心が獲られないのだから誰も違うとは言えない。仏法聴聞といいながら、教える側も聞く側も信心を捏造することばかりにかかわり果てている。信心は「本願力回向」だから向こう側から来る。

 いただくばかりだから、信心をいただく器を空にして待たなくてはならないのに、理屈で心がいっぱいになっている。空にならないから信心がいただけない。聞き方が根本的に間違っている。心の器を空にするのが仏法聴聞です。信仰は理屈ではなく事実に立つ。嘘は嘘。嘘から「歓喜」は生じない。理屈は嘘だから理屈の勉強はやめて、ただひたすら自分の心を見る。心の現実を知るのに勉強はいらない。日常生活すべてがあなたの心の現実を教えている。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。仏さまはとうにあなたの心の現実を知っている。あなたが仏さまが知っているようにあなたの心の現実を知れば、あなたにかけられた仏さまのお心が知れるというものだ。これが疑心なし。事実を事実と受け入れる謙虚さが信仰の基礎になる。信仰は事実に立たなくては疑心が晴れるとはならない。捏造された理屈の信心では疑心も晴れず「歓喜」も生じない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-20 06:10 | 聴聞の実際 | Comments(0)

仏との対話

e0361146_16295888.jpg  二三〇、仰せに。凡夫のこころは浄土参りの種にはならぬ。
  信決定の時凡夫の心を消して、如来さまの御心一つにして下される。

   (香樹院語録)

 人と生まれたことは苦悩である。あなただけでない、親も兄弟も、教師や仲間、親族、周りの者みな暗い心を内深くに隠して生きている。隠していることも知らずに苦悩している。だから、あなたの苦悩を最後まで聞きとげてくれる人はいない。聞けば聞いたことを利用するのが人である。あなたもそうするに違いない。この世の利害から自由な人などいないから、人ごとにあなたを利用する。あなたの苦悩を正しく受け入れ、最後まで聞きとげてくれるのは仏さまだけである。

 仏さまと一緒の生活が信仰である。仏さまはどこにおられるか。仏さまはあなたの心の奥底におられる。仏さまと心通じあい、対話できるように、あなたの心の奥底に降りていく。そのように信仰するのです。仏法聴聞に勉強は必要ない。知識もいらない。南無阿弥陀仏と称えて、自分の心を見せてくださいとお願いするのです。自分の心が見えたら、それが仏さまと心が通じたことです。仏さまと心が一つになった。悩みは人に聞いてもらうのではなく、仏さまに見ていただくのがよい。それが仏法聴聞、南無阿弥陀仏の生活です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-19 06:20 | 聴聞の実際 | Comments(2)

助けたまえ

e0361146_15504971.jpg  二二三、或る時の仰せに。
  たのむ故おたすけじゃとは思うなよ。
  助けたまえと、弥陀をたのむのじゃ。

  (香樹院語録)     


 「おたすけ」を期待して「たのむ」となれば、それは計算である。人知は計算する。計算する心から「たのむ」心は出てこない。「たのむ」心は仏からの回向である。なにから「助けたまえ」か。計算高い人間の心から「助けたまえ」である。計算しても計算しても立ち行かない境遇にしてくれたのは仏のお慈悲である。南無阿弥陀仏を称えようとする心も如来回向である。人知は闇、光は人知の外、不可思議から来る。すべては仏の御はからいである。ただいただくばかりである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-06 15:43 | 聴聞の実際 | Comments(0)

信心を得るが肝要なり

  二一八、江州の嘉右衛門、いたく未来のことを苦しみ、
  暑中に越後まで参り汗を拭い拭い師に謁したるに、
  師の曰く、体の踏み出しは出来たが、まだまだ心のふみ出しが出来ぬ。
  マア勝手の方え行って、腹の支度でもした がよい、と。
  嘉右衛門身のおき処なく、未だ後生を思うことの薄きに驚き愧じ入ること甚しかりしと、
  自ら語られき。

  二一九、仏法を聞きわける人はあれども聞きうる人甚だ稀なりとありて、
  聞き分けるが所詮でない。聞いて信心を得るが肝要なり。
  然るに、人は聞き分けるまで骨折れども、わかれば途中にて止めるもの多し。
  かようにては信心は得られず。
  ただ分かりたさを目的にして、その上に聞き得ることを止める人は邪見なり。
  故に、弥陀の名を聞きうるまで聞かねばならぬと合点すべし。

  (香樹院語録) 
 

 法を心の外に置いて知識を学ぶように聞法する人がいる。このような人は根本的に信仰がわからない。このような聞き方をすれば五十年聞いても信心はわからない。心に踏み込んで心に隠している病根を暴き出すようにしなければ心の治療にはならない。それゆえ仏法の知識はむしろ邪魔で、心を照らすように聴聞しなくてはならない。機の深信、内観の念仏が聞法の基本と知るべきです。

 心の深海に降りて行けば見たこともない醜い心を見ることになる。そうすれば少しは信仰に近くなる。そうなると自分の心との凄絶な闘いになる。自我が崩壊する過程に入ったので自我は生き残りをかけてあなたを騙しにかかる。「その道は間違っている。自分を見失うぞ」と。あなたの心の声は郡賊悪獣の声、悪魔の声ですから、うろうろと相手にしてはいけない。

 善知識の言葉を灯りとも頼み、仏の声に耳傾けて、仏の救いだけを信じなくてはならない。「聞いて信心を得るが肝要なり」。聞法歴は長く、それらしいことを得々としゃべる年配者を見ると、聞き方を間違えたまま一生を終えようとしていると思う。信仰は学問ではないのだから、知識の缶詰をたくさん持っていても開けて食べなくては腹はふくれない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-05 19:28 | 聴聞の実際 | Comments(0)