カテゴリ:歎異抄の読み方( 33 )

(異義条々 その八)

  一 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、
  大小仏になるべしということ。
  この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

  (歎異抄・第18章)

 日本という国に「個の救済」としての仏教を切り開いたのは法然と親鸞でした。「施入物の多少にしたがいて」などというのは宗教儀式としての旧仏教でしょう。親鸞の信仰とはまったく関係がない。親鸞聖人の御一流にこんな人たちが混じっていた。唯円は本当に怒っている。

 以上、異義八箇条を読んでみました。唯円は「右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか」(後序)と総括しています。信心とはなにか。目に見えない仏のお心は心で感じることができる。仏と一対一の対話の関係ができる。それが信心です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-15 19:26 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

辺地の往生をとぐるひと

(異義条々 その七)

  一 辺地の往生をとぐるひと、
  ついには地獄におつべしということ。
  この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。
  学生だつるひとのなかに、
  いいいださるることにてそうろうなるこそ、
  あさましくそうらえ。

  (歎異抄・第17章)

 「辺地」とは国境の外れの地。都から遠く離れ、王様の威令すら届かない辺鄙な地。野蛮の地。そんな語感があります。浄土にも「辺地」があるというのでしょう。生涯、聴聞に励めども、心は素直ではなく、仏の声を聞こうともしない。仏の声が届かない辺鄙な田舎に住んでいても「ここも浄土の内」とばかり平気でいるのでしょう。これは喩えです。

 仏教といえば「死後」のことだとみな思っている。浄土も地獄と並べて死後の世界だと信じられている。そう信じている人のために「方便化土」が教えられている。しかし、信心とは現在に仏心をいただくことですから、浄土は現在に開ける。現在に開ける浄土を(化土に対して)「真実報土」というのでしょう。

 浄土とは仏のお心のことです。仏のお心と心が通じ合うことを仏のお心に生まれるという。大きなお心の中に摂取されて小さな心を見せていただく。このようなことを「往生」というのでしょう。死んで浄土に生まれるといっても証拠がない。生きているうちに経験するから疑いが晴れる。仏はわたしに仏を経験させて喜ばれる。仏が喜ばれるからわたしも嬉しい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-14 22:20 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その六)

  一 信心の行者、自然に、
  はらをもたて、
  あしざまなることをもおかし、
  同朋同侶にもあいて口論をもしては、
  かならず回心すべしということ。
  この条、断悪修善のここちか。

  (歎異抄・第16章)

 異義者はなんと言っているか。信心を得たほどの人(信心の行者)なら、身口意の三業で造る悪ごとに自ずと回心懺悔されなくてはならない。それが(親鸞の教える)「自然」ということだと、そう主張するというのです。「はらをもたて」が意業、「あしざまなることをもおかし」が身業、「同朋同侶にもあいて口論をもして」が口業に配置されている。それに対して唯円は、「回心」と「自然」の二つについて、その間違いを糺している。まずは「回心」について。

 一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。(同・第16章)次いで「自然」について。
 
 信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。(同・第16章)

 わたしの意志に関係なく働くから「他力」といいます。どんな働きか。心が心から離れるようにする働きです。われらの普段の心は自分の心を主人と崇め、召使のように従順だ。だから、自分の心と一緒になって、自分の心が造る六道をへ巡り、あらゆる苦悩を舐めさせられる。この苦悩を逃れる方法を「仏道」といい、苦悩のない処を「涅槃」(浄土)という。「他力」(仏)を初めて自覚する経験を「信心獲得」(初歓喜地)といい、働きを自覚するので、後はなにもしなくても仏が涅槃へと導いてくださるのがわかる。それで「自然(法爾)」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-11 12:24 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その五)


  一 煩悩具足の身をもって、
  すでにさとりをひらくということ。
  この条、もってのほかのことにそうろう。

  (歎異抄・第15章)

 人は煩悩を断つことができない。人の心が煩悩だからです。煩悩を断とうとすることも煩悩だ。思い通りにしたい「貪欲」と、思い通りにならなくて腹が立つ「瞋恚」。この二つの煩悩の間を行き来しているうちに夢のように一生が終わる。この事実を知らないことを「無明」といいます。得たといってはわれを誇り、失ったといっては人を怨む。救われないとは人の一生でしょう。

 人の一生は闇です。闇の中にいる人は闇の中ということを知らない。闇を闇と知らないから闇です。しかし、針の先ほどでも光を見れば闇を闇と知る。光は外から届く。光は未来から届く。だから、光を見た者は未来を見る。未来から現在を見る。救いは未来にある。現在に救いはない。救われないと知った者は救われないままに救われる。光は煩悩を照らすから煩悩が見える。煩悩が見えることを「心光摂護」という。

 『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。(同・第15章)

 見えたことを光という。なにが見えたか。心の六道が見えた。未来から現在が見えた。浄土から穢土が見えた。光は現在を照らすから未来という。未来は現在に超越して、しかも現在に臨んでいる。これを「出離生死」という。見えるようにして救う。煩悩という「わが身の事実」を見えるようにしていただいたから「智慧」という。智慧という「さとり」をいただいたので「信心のさだまる」という。悟りを開いたのではない。悟りの中に生まれた。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-10 10:40 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その四)

  一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。
  この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、
  命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、
  一念もうせば八十億劫のつみを滅し、
  十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。
  これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、
  一念十念といえるか、滅罪の利益なり。
  いまだわれらが信ずるところにおよばず。

  (歎異抄・第14章)

 平安時代の浄土信仰が「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」だったのでしょう。罪滅ぼしをして仏にしていただく。いわゆる現代の「葬式仏教」がそうであるように、平安時代の浄土信仰はただの宗教儀式でしかなかった。それを「個の救済」の宗教にまで高めたのが法然であり親鸞であったのでしょう。だから、唯円は「死後の浄土」を願うことでしかない「臨終正念」を「いまだわれらが信ずるところにおよばず」と批判するのです。

 「臨終正念」を願う人は「死後」がどうしても心配になるのでしょう。「浄土」という特別な世界を考えているから、なんとしてもそこに生まれたい。生まれない可能性だってある。だから、どうしても不安になる。では、信心の人は「死後」が不安ではないのか。親鸞は信心をいただいた人の心境をこう表現している。「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」(正信偈)と。

 これは信心の智慧が開く(雲霧の下、明らかにして闇きことなき)覚りの境地です。「摂取の心光、常に照護したまう」。智慧の光に照らされて煩悩(というわが身の事実)が見えた。見えたことが煩悩を離れたことです。見えることが光の中にいることです。すでに浄土の中(涅槃の境地)にいる。だから、仏に等しい。便同弥勒の菩薩と仏を隔てるのは少しばかりの「貪愛・瞋憎の雲霧」でしかない。よって、命終すれば、たちまち仏になる。これが信心が開く覚りの境地(涅槃)です。すでに浄土の中であるから、往生しそこねるなんてことはない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-08 06:22 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その三)

  一 弥陀の本願不思議におわしませばとて、
  悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、
  往生かなうべからずということ。
  この条、本願をうたがう、
  善悪の宿業をこころえざるなり。

  (歎異抄・第13章)

 三番目の異義は「本願ぼこりは往生しない」というものです。異義者は「本願ぼこり」が気に入らない。罪を畏れない「造悪無碍」になって道徳が乱れると心配するからです。「本願ぼこり」は本願を頼りにするのはいいが懺悔がない。よって、正しい信心ではない。一方、「造悪無碍」を批判する異義者は罪を畏れる。自分の心をよくして仏になりたいから罪悪で心が汚れることを畏れている。しかし、自力の道徳主義者は自分がどれ程の罪悪を造りながら生活しているかの自覚が根本的に欠けている。欠けているから自分の心が成仏の種になると思っていられる。

 この章には「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」という親鸞の言葉がある。生まれたときに得た体は何度生まれ変わってきた体だろうか。生まれ変わり死に変りする間に蓄積された罪悪は無量で、この体は罪悪でできた体だとわかる。罪悪でできた体から罪悪が出てくるのは自然のことで、身口意の三業すべてが罪悪に汚れている。こんな体から出てくる心をもって仏になろうとしても無理な話だとわかることが「宿業」というのでしょう。

 さて、「本願ぼこりは往生しない」という「自力」の異義を批判した上で、唯円は「他力」とはなにかを最後に示します。「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」。仏になる見込みのない自分の心を相手にすることはもうやめて、われを救うとお約束してくださる仏のお心を思いなさいとのご化導です。この言葉の通りでありたい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-05 06:20 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その二)

  一 経釈をよみ学せざるともがら、
  往生不定のよしのこと。
  この条、すこぶる不足言の義といいつべし。

  (歎異抄・第12章)

 前章は「念仏」についての異義。この章は「学問」についての異義です。文字が読めない庶民がほとんどの時代、こんなことを言う僧がいても当然すぎるほど当然とも思うが、唯円は「法の魔障なり、仏の怨敵なり」と口を極めて批難している。信心のわからない指導者には伝えるべき「仏心」がない。仏心がわからないから知識しか伝えるものがない。「学問」を誇って僧としての地位と名誉を守ろうとする。それは現代も変わらない。むしろ、僧だけでなく御同行までが信仰してるようでみな学問の真似事をしているのではないか。

 歎異抄には親鸞の信仰告白がある。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(後序)。信仰とは仏のお心と直に心がつながることだとわかります。仏心はこの身に一つずつ埋め込まれている。埋め込まれた仏心を花開かせることが信仰に出会うことです。外ではなく内にある。すべての人が持っている。内なる仏心からの呼び声を「本願」といただく。学問は外に向かう。信仰は仏の声に呼ばれて内に向かう。内に向かうのに「学問」はいらないということでしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-04 06:35 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その一)

  一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、
  「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、
  また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、
  ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、
  ひとのこころをまどわすこと、
  この条、かえすがえすもこころをとどめて、
  おもいわくべきことなり。

  (歎異抄・第11章)

 唯円は念仏グループの指導者であったでしょうから、それが具体的に誰だったかは別にして、いずれは指導者になるであろう後進のために「歎異抄」を書いている。他の念仏グループの指導者たちが唱えている八つの「異義」を取り上げ批判するのが執筆の動機です。当然かもしれないが、最初に取り上げた異義は「念仏」に関するものです。内容は誓願と名号、信と行を二つに分けて、どちらを信じて念仏するのがいいのかと「一文不通のともがら」に迫る異義者の態度を批判しています。

 異義者はおそらく「信がなければ念仏しても意味がない」と言いたいに違いない。理屈好きな人はたいてい念仏が嫌いだから、信心があれば念仏はいらないと思っている。しかし、そのように主張することが異義者に「信心がない」ことを暴露してしまっている。そもそも、信心とは真心であり、信の一念に仏のお心をいただく。仏のお心をいただいた喜びが念仏になるのだから、信には必ず念仏が伴う。念仏のない信はない。

 また、念仏は念仏させようの仏のお心の現れであるから、信がなくとも、口を突いて念仏が出てくるのです。信なくして出てくる念仏は気づけよの仏のおさとしです。だから、信と行は二つで一つ、どちらか、ではない。異義者は心素直に念仏して仏の心につながろとしている御同行の念仏が仏のお働きであることを知らない。念仏の指導者たらんとするなら、まず自らが信を得なくてはならないでしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-03 14:46 | 歎異抄の読み方 | Comments(2)

  上人のおおせにあらざる異義どもを、
  近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、
  つたえうけたまわる。
  いわれなき条々の子細のこと。

  (歎異抄・中序)

 歎異抄には前序、中序、後序と三つの「序」があります。中序は前半の「師訓篇」(第一章~第十章)と後半の「歎異篇」(第十一章~第十八章)の間、「歎異篇」の序の位置にあるのが「中序」です。第十章までの前半に「上人のおおせ」を示した上で、これからの後半で「上人のおおせにあらざる異義ども」を批判する構成になっています。「右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか」(後序)とあるように、唯円が批難する異義者たちは真実信心のない宗教指導者(僧侶)たちで、他力がわからない。お慈悲を受けがたくしている異義者たちの心の障りを考えてみたい。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-02 06:05 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)

 「無義」とは「はからいなし」。あれこれ知恵を廻らすのは「人知」(分別知)、「無義」とは「人知」がない。「人知」が届かないから「不可称不可説不可思議」という。いくら「人知」を磨いても「仏智」(無分別智)になることはない。「人の心」を捨てよ、さすれば「仏の心」を得る。歎異抄・第十章はそのことを端的に示した。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-09-11 06:24 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)