力なくして終わる時

  久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
  いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、
  まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。
  なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、
  ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。

  (歎異抄・第9章)

 二十代で初めて「歎異抄」を読んだとき、ここに引っ掛かった。死ぬのが恐くて仏教か、と。しかし「歎異抄」を読むのをやめようとは思わなかった。これが縁というものだろうか。いまはこの一節が「歎異抄」の中でもとくに「いいなぁ」と思う。さて、仏の悟りを「無分別智」という。分別とは事実を評価する。無分別智は事実を評価しないで、ありのままに受け入れる悟りです。われらには都合のよい事実と都合の悪い事実があるけれど、「生老病死」の「老」も「病」も嫌だが「死」はまったく受け入れ難い。受け入れ難い「死」を親鸞は「なごりおしくおもえども」と気負いなく受け入れている。生死を離れた親鸞の心境を表しています。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-22 06:22 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

願力自然

  ①信心さだまりなば、
  往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、
  わがはからいなるべからず。

  ②わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、
  自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。

  ③すべてよろずのことにつけて、
  往生には、かしこきおもいを具せずして、
  ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、
  つねはおもいいだしまいらすべし。
  しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。

  ④わがはからわざるを、自然ともうすなり。

  (歎異抄・第16章)

 最初に「①信心さだまりなば」とある。「往生」とは仏に成る。無為自然の悟りへと心を開くのが智慧の働きです。智慧の働きを「願力自然」という。願力自然のことを「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず」と教えてくださった。「わがはからい」とは“我”というちっぽけな有限差別の世界をつくる。差別は苦しみに向かう。安楽に向かう念仏とはまったく方向が反対だ。

 次に「②わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし」とある。願力を仰ぐには願力を一度は経験しなくてはならない。願力を最初に経験するを「信心さだまりなば」という。「柔和忍辱のこころ」とは仏心のことです。煩悩を仏心へと転ずる働きが「自然のことわり」だと教えてくださった。「転悪成善」ともいう。悪の煩悩を善の仏心に転ずる働きこそが智慧(念仏)の働きです。

 最後に「③すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして」とは、人の頭は「かしこきおもい」で出来ている。賢くないのに賢いと思うから愚かという。それを「具せず」とは頭に湧いては消えるだけの思いを相手にしない。それが「智慧の念仏」であると教えてくれています。実に親切です。

 「④わがはからわざるを、自然ともうすなり」。これはまとめの言葉です。「わがはからわざる」とは無我のこと、「自然」とは全体として働く働き、そこには個がない。個のない無我へと心を開いていく。それが「念仏」であると教えて下さった。親鸞の「自然法爾章」に通じる唯円のすばらしい文章です。自らの経験に基づいていることは言うまでもない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-25 12:15 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

回心ということ

  一向専修のひとにおいては、
  回心ということ、ただひとたびあるべし。
  その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、
  弥陀の智慧をたまわりて、
  日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、
  もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、
  回心とはもうしそうらえ。

  (歎異抄・第16章)

 智慧は心が見える。心が見えるようにして救う。知らなかった智慧(仏)を始めて知るから「弥陀の智慧をたまわりて」という。智慧を与えて救う、これが仏のお慈悲。心は心に執着しているからいつだって心の求めることをしたい。心に夢中になっている。いつも執着の火だるまになっているが、火だるまになっていることがわからない。

 心から出てきた「思い」の通りにしなくちゃと、いつも心に支配されて自由がない。こんな心に智慧が働く。火だるまになっている姿を見せる。火に水をかける。心ははっとして心を見る。これが「弥陀の智慧をたまわりて」という体験だ。智慧を一度いただけば、火だるまになっては、はっと気づいて心を離れる。これが出来るようになる。この繰り返しが一生涯続く。これが智慧、これが仏道になる。

 生きることが煩悩、煩悩あるかぎり智慧の救いは働き続ける。煩悩は無量、無辺だから、煩悩の火が消えるまで智慧の救いの活動は続く。これがこの胸の中で起きていることだ。そして、この身が滅するとき、この身に起きていた智慧の救いの事業、衆生済度も終る。この身を救い終わって成仏する。この身に現れた仏が成仏する。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-23 19:59 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

歎異抄・第九章の読み方

  念仏もうしそうらえども、
  踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん。

  (歎異抄・第9章)


 著者・唯円には「踊躍歓喜」の信体験があった。だから「踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と訴えることができる。無明に小さな穴が開いて心に智慧の光が差した。最初は法悦の中にある。それから数年、暫くはわかった気になっていられたが、やがて「踊躍歓喜のこころ」がわからなくなる。智慧に慣れ、智慧を私物化するからである。

 親鸞もまた「親鸞もこの不審ありつるに」と言っているから、親鸞も一度はこれを経験した。信心が深まっていくプロセスであり、ここを越えなければならない。どう越えるか。越えさせるのもまた仏のお育てであると気づかされるということです。「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり」。親鸞は弟子の唯円にこう答えた。

 救われない宿業の身との自覚をいただいて、わたしたちは仏のお心の中に生まれさせていただけた。それをも忘れて、信を得たことでなにか偉い者にでもなったように思ってしまっているんですね。わたしは今もそうですよと、このように親鸞は答えた。この経験があるからこそ、さらに深く本願力の手強さに身も心も任せていかれるようになる。このようなことが何度も何度も繰り返されつつ自然法爾の境地に深まっていく。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-19 06:29 | 歎異抄の領解 | Comments(2)

念仏は無碍の一道なり

  念仏者は、無碍の一道なり。
  そのいわれいかんとならば、
  信心の行者には、天神地祇も敬伏し、
  魔界外道も障碍することなし。
  罪悪も業報も感ずることあたわず、
  諸善もおよぶことなきゆえに、
  無碍の一道なりと云々

  (歎異抄・第7章)

 「無碍」とは影響を受けない。自分の心の影響を受けない。「天神地祇」も「魔界外道」も自分の心の影です。だから、自分の心から、ありがたそうな心が起きてきても、あるいは反対に、恐ろしくも浅ましい思いが湧いてきても、どちらも相手にしないでいられる。これを「無碍」といいます。自分の心が見えることを「智慧」といいますが、見えるのは「離れている」から。離れて見ている。これが仏の目差しです。「道」とは悟り。仏の目差しをいただいて自分の心の影響を受けずに暮らす心の生活を「無碍の一道」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-13 06:36 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

「慈悲」の三つの章

  ①浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

  (歎異抄・第4章)

  ②一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第5章)

  ③ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
  わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

  (歎異抄・第6章)

 歎異抄の第4章から第6章の三つの章は「慈悲」についての教えです。慈悲とは「救いの働き」のことです。救うのは仏であり、われらは救われるだけの身です。決して救う身ではない。仏とわたしとの関係がはっきりすることが「救われる」ということですから、救う救われるの関係をはっきりさせるために「慈悲」についての三つの章がここにまとめてあります。

 まず、第4章は「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」。聖道門は人間の心を磨いて仏の心にしようとする。くず石はいくら磨いてもダイヤモンドにはならない。人間の心への期待を捨てなさいと教えています。仏の心と人間の心、この区別をはっきりさせなくてはならない。仏の心を経験するということがあるから「仏々相念」といって、仏とわたしとの間に心の対話が成り立つ。

 第5章は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。父母兄弟、わが妻、わが子も、この生でたまたま縁を結んだとはいえ、無量劫以来の積みし悪業の結果としての宿業の身をもって生まれてきた「無間の罪人」どうしであることに変わりはない。いずれも仏の救いを待つ身で、わたしが救うことなどできない。親鸞は「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ」(正像末和讃)とはっきりしています。

 また、第6章は「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」。世の習いで師と弟子ということはあるが、ともに念仏を称える身にまで育てていただいた尊い仏弟子であるから、間違っても師匠が救ったなどということはない。「救う」仏と「救われる」わたし、この区別がはっきりすることが「救われる」ことです。このように読めば「慈悲」の三つの章が領解できる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-11 12:09 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

二つの「大切の証文」

  ①弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  ②善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞまことにておわします。

  (歎異抄・後序)


 歎異抄の著者・唯円は「大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり」といって、真実信心をいただいた親鸞の心境を端的に示す言葉二つを記録に残している。これによって、あなたの信心が正しいか正しくないかを判断する「目やす」にせよというのです。歎異抄は刃物のように鋭い。大様に読んではいけない。

 さて、最初の証文。如来とは光であり、光は智慧であり、智慧とは「そくばくの業をもちける身にてありける」という自覚です。無量劫より積みし悪業の蓄積としての宿業の身との自覚が起こったのは「たすけんとおぼしめしたちける本願」による。煩悩は煩悩を見ない。それゆえ煩悩である。見えないはずの煩悩が見えたことが智慧をいただいた証拠になる。最初の証文はそういう教えです。

 二つ目の証文。煩悩とは「思い通りにしたい心」です。それがどんな思いであろうと「思い通り」が善で、「思い通りにならない」ことが悪です。だから、煩悩には善悪がある。善悪がないと煩悩は成り立たない。しかし、善悪を区別するのが人間の頭だから、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」とは、善悪の煩悩をなくすことはできないが、存知せず、すなわち善悪に縛られない、と親鸞は表明しているのです。善悪に縛られないとは善悪に縛られてもいいということも含んでいます。これが心が自由になった証拠です。

 最後に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」とは「俗」です。「念仏」(智慧)は「聖」です。現代は「聖と俗」の区別がわからなくなった時代ですが、聖とは「まこと」、俗とは「そらごとたわごと」です。唯一絶対の真実があると信じ、真実を求め、真実に近ずく仏道という生き方、信仰態度があることがここに示されています。あなたの人生は仏道になっているか、との厳しいご化導です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-06 06:17 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

善悪のふたつ存知せず

  聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。

  (歎異抄・後序)

 親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と言った。どういうことかといえば、なにもわかりません。なにが善でなにが悪かなど、仏でもない自分にわかるはずもありませんと、そう言った。わかろうとすることが終わった。念仏一つが残った。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-04-26 09:09 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

  ①弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  ②往生をばとぐるなりと信じて
  ③念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  ④すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第1章)

 仏教は涅槃の境地に入ることを目的に修行する。涅槃とは煩悩がない。煩悩のない静かで平和な心の状態を涅槃という。仏のさとりの境地です。さとりの境地を「浄土」といい、煩悩をもったままさとりの境地に生まれさせようというのが「弥陀の誓願」です。煩悩をもったまま涅槃の境地に入るので「不思議」です。

 歎異抄第一章では「摂取不捨」という言葉を使っていますが、涅槃の境地に生まれることを「摂取不捨」といいます。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということです。弥陀の本願、すなわち「摂取不捨」を体験することが「往生」です。第一章の冒頭の文に番号をつけましたが、①②③④は時系列に並んでいるようですが、「たすけられ」(教)るのも「念仏もうす」(行)のも「信じる」(信)のも「あずけしめたまう」(証)のも経験的にはすべて同時です。

 とくに大切なのは「往生をばとぐるなりと信じて」で、信じたのはすでに往生したからです。涅槃の境地が浄土、涅槃の境地に生まれるから往生です。すでに往生したから、涅槃の一分を経験したから必ず無上涅槃に達すると確信するのです。この経験を「摂取不捨」といいます。十八願の成就、信の一念に涅槃(仏)を経験する。仏教の結論を冒頭に示したのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-04-06 21:55 | 歎異抄の領解 | Comments(0)

  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
  念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
  たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
  さらに後悔すべからずそうろう。

  (歎異抄・第2章)

  「歎異抄」の一番驚くべき言葉は「念仏は、
  まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、  
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
  総じてもって存知せざるなり」、あれは大変な言葉である。
  あれをよく平静に読んでいたと思う。
  ああいうことは、深い体験、自分を掘り下げて、
  深い深層意識の底の底まで掘り下げて、
  ああいう言葉が出てくる。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 言葉というのは心の表層にある。心の表層である意識は騒々しく薄っぺらで、物事が早く流れて行く。われらは意識のつくる小さな世界に住んでいるが、意識は心という大海原の波の上で漂流する筏のようなもので、大海原の広さも知らなければ、波の下の光も差さない深海の深さも知らない。あたかも筏の上が全世界だとばかりに思い込んでいる。大きな間違いである。意識はコップの中の嵐のような日常に明け暮れている。ときどき筏が転覆して始めて海の怖さを知る。

 いわば、信仰とは光も射さない心の深海に降りて行くような作業だ。これを内観という。深く深く降りて行けば、そこは光も音もない孤独な世界である。闇と無音の世界で一人きりになったところで自分と向き合うのである。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」。光も音もない世界では理屈はどうでもよい。すべての言葉が削ぎ落とされて右も左もわからなくなって、自分はなにも知らないと思い知らされる。一文不知になって、はじめて仏の呼び声を聞こうとするのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-23 06:18 | 歎異抄の領解 | Comments(4)