カテゴリ:歎異抄の読み方( 38 )

歎異抄・第十章の読み方

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)

 無義とははからいなし。はからいが滅する処を涅槃という。仏教の根本義である。涅槃は果位の悟り。果位の悟りが因位のわたしに届いた姿を南無阿弥陀仏という。だから「念仏は無義をもって義とす」と言ったのである。不可称不可説不可思議とは仏智である。念仏は智慧の回向であるから、それゆえ「不可称不可説不可思議のゆえに」と言ったのである。はからいを捨て、すべてが如来の御はからいとお任せすれば、仏智の不思議にて、お念仏申されるのである。これが第十章の文意である。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-14 06:24 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章) 
 

  義とは、はからいである。
  上の義は人間のはからい、凡夫のはからい。
  下の方の義は、字は同じであるが、
  これは仏智、如来の御はからいである。

  (曽我量深著「歎異抄聴記」より)


 「義」を量深師のように領解すると、「義なきを義とす」の意味は「凡夫のはからいがないことが如来の御はからいである」となり、文意がさらに深くなる。「凡夫のはからい」が「如来の御はからい」に転じられることがはっきりする読み方だからです。「凡夫のはからい」がなくなるわけではなく、「凡夫のはからい」はそのままに、「凡夫の心」から「仏の心」へと主体が転ずる。主体は転じても「凡夫のはからい」以外にわれらに生活はないわけだから、「凡夫のはからい」はそのままでなにも問題はない。さて、われらは生まれたときに役回りをもらった。もらった以上、これしかない役回りを演じ切るだけである。さぁ、役回りを演じ終えて涅槃に帰ろう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-13 06:18 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)  

 竹内先生は「はからいを捨てる」ことを水練に喩えてこう説明された。「溺れまいとするから溺れる。なにもしなければかえって水に浮く。浮くことがわかると、あとは、どこまでも泳いでいける」と。水とは事実。事実を恐がって、事実に溺れまいともがくのが自力なら、なにもしない、これは仏の御はからいにお任せするのでしょう。お任せすると事実を受け入れられる。事実が恐くないように浮かばせてくれたのが他力。浮かばせる他力を知ったのが信の一念で、どこまでも信心が深まっていくのが不退転です。


 では、「はからいなし」とは具体的にどういうことか。水練の譬えでいえば、なにもしない。仏道でいえば「頭に湧いては消えるだけの思いを相手にしない」ということです。水に勝とうとするから水に負ける。水に負ければ水が助けてくれる。どんな悩みも放って置くとやがて消えてなくなる。やがて消えてなくなるものをいじくり回して立派な悩みに仕立て上げることを「はからい」という。悩みは悩むことで解決するのではなく、放って置くことで解決する。悩みは放って置くと消えてなくなる。これが「はからいを捨てる」ということです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2017-12-12 06:16 | 歎異抄の読み方 | Comments(4)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)

 試みに現代語訳すると「はからいがないことを南無阿弥陀仏という。ただ信ずるだけである。不可思議の仏智であるから、と親鸞聖人は仰せになった」と。理由があって信ずる限り、それはまだ信仰の領域ではない。理由が崩れれば信仰も崩れる。本当の信仰は理由がない。それを「不可称不可説不可思議のゆえに」という。


「はからい」とはあれこれ考える頭である。われらは「はからい」を離れられずに悩み苦しんでいる。だから「無義」が救いになる。「はからいがない」ことを涅槃という。南無阿弥陀仏とは仏のお名前であり、仏とは涅槃、すなわち救いである。よって、南無阿弥陀仏とはわたしが救われた姿である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-11 06:21 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

歎異抄・第六章の読み方

  一 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、
  という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。
  親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
  そのゆえは、わがはからいにて、
  ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。  
  ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
  わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

  (歎異抄・第6章)

 歎異抄を二十代から読んでいる。歎異抄を読んでみな親鸞が好きになる。蓮如上人は権威であるからなんとしても「蓮如上人」であるが、親鸞はなんのためらいもなく「親鸞」と呼べる。仏のみ前に身と心を差し出して「煩悩具足の凡夫」とはどういうものかを教えてくださったから「親鸞」とお呼びするのがふさわしい。竹内先生は「親鸞には嘘がない。だから、ついていける」と言うのが常でした。

 唯円というフィルターがかかっているとはいえ、唯円は圧倒的な存在感をもって親鸞の肉声を伝えている。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(後序)とか「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」なんて、一体、誰が言えただろうか。わたしがこうして弥陀の本願に救っていただいたように、同じように、あなたも仏さまに救われてください、と。まことの親切とはこのようなものだと感じる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-11 06:37 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

歎異抄・第五章の読み方

  一 親鸞は父母の孝養のためとて、
  一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
  そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第5章)

 自ら「親鸞」と名告りをあげるはよくよく大切なことを言おうとする。なんと仰せか。「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と。どういうことか。法然以前の旧仏教は鎮護国家、死者儀礼としての宗教であったが、法然以後は「個の救済」としての新仏教にはっきりと生まれ変わった。死者のために念仏は称えない。念仏は救われたことの喜びである。

 そういう意味で、この章は「死者儀礼」としての旧仏教を否定し「個の救済」としての新仏教をはっきりさせた親鸞の宗教宣言といえる。「某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」(改邪鈔)という言葉も死者儀礼を否定する親鸞の態度を示している。「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」(歎異抄・第12章)。これだけが親鸞の仏教である。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-07 06:30 | 歎異抄の読み方 | Comments(5)

(異義条々 その八)

  一 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、
  大小仏になるべしということ。
  この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

  (歎異抄・第18章)

 日本という国に「個の救済」としての仏教を切り開いたのは法然と親鸞でした。「施入物の多少にしたがいて」などというのは宗教儀式としての旧仏教でしょう。親鸞の信仰とはまったく関係がない。親鸞聖人の御一流にこんな人たちが混じっていた。唯円は本当に怒っている。

 以上、異義八箇条を読んでみました。唯円は「右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか」(後序)と総括しています。信心とはなにか。目に見えない仏のお心は心で感じることができる。仏と一対一の対話の関係ができる。それが信心です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-15 19:26 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

辺地の往生をとぐるひと

(異義条々 その七)

  一 辺地の往生をとぐるひと、
  ついには地獄におつべしということ。
  この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。
  学生だつるひとのなかに、
  いいいださるることにてそうろうなるこそ、
  あさましくそうらえ。

  (歎異抄・第17章)

 「辺地」とは国境の外れの地。都から遠く離れ、王様の威令すら届かない辺鄙な地。野蛮の地。そんな語感があります。浄土にも「辺地」があるというのでしょう。生涯、聴聞に励めども、心は素直ではなく、仏の声を聞こうともしない。仏の声が届かない辺鄙な田舎に住んでいても「ここも浄土の内」とばかり平気でいるのでしょう。これは喩えです。

 仏教といえば「死後」のことだとみな思っている。浄土も地獄と並べて死後の世界だと信じられている。そう信じている人のために「方便化土」が教えられている。しかし、信心とは現在に仏心をいただくことですから、浄土は現在に開ける。現在に開ける浄土を(化土に対して)「真実報土」というのでしょう。

 浄土とは仏のお心のことです。仏のお心と心が通じ合うことを仏のお心に生まれるという。大きなお心の中に摂取されて小さな心を見せていただく。このようなことを「往生」というのでしょう。死んで浄土に生まれるといっても証拠がない。生きているうちに経験するから疑いが晴れる。仏はわたしに仏を経験させて喜ばれる。仏が喜ばれるからわたしも嬉しい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-14 22:20 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その六)

  一 信心の行者、自然に、
  はらをもたて、
  あしざまなることをもおかし、
  同朋同侶にもあいて口論をもしては、
  かならず回心すべしということ。
  この条、断悪修善のここちか。

  (歎異抄・第16章)

 異義者はなんと言っているか。信心を得たほどの人(信心の行者)なら、身口意の三業で造る悪ごとに自ずと回心懺悔されなくてはならない。それが(親鸞の教える)「自然」ということだと、そう主張するというのです。「はらをもたて」が意業、「あしざまなることをもおかし」が身業、「同朋同侶にもあいて口論をもして」が口業に配置されている。それに対して唯円は、「回心」と「自然」の二つについて、その間違いを糺している。まずは「回心」について。

 一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。(同・第16章)次いで「自然」について。
 
 信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。(同・第16章)

 わたしの意志に関係なく働くから「他力」といいます。どんな働きか。心が心から離れるようにする働きです。われらの普段の心は自分の心を主人と崇め、召使のように従順だ。だから、自分の心と一緒になって、自分の心が造る六道をへ巡り、あらゆる苦悩を舐めさせられる。この苦悩を逃れる方法を「仏道」といい、苦悩のない処を「涅槃」(浄土)という。「他力」(仏)を初めて自覚する経験を「信心獲得」(初歓喜地)といい、働きを自覚するので、後はなにもしなくても仏が涅槃へと導いてくださるのがわかる。それで「自然(法爾)」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-11 12:24 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

(異義条々 その五)


  一 煩悩具足の身をもって、
  すでにさとりをひらくということ。
  この条、もってのほかのことにそうろう。

  (歎異抄・第15章)

 人は煩悩を断つことができない。人の心が煩悩だからです。煩悩を断とうとすることも煩悩だ。思い通りにしたい「貪欲」と、思い通りにならなくて腹が立つ「瞋恚」。この二つの煩悩の間を行き来しているうちに夢のように一生が終わる。この事実を知らないことを「無明」といいます。得たといってはわれを誇り、失ったといっては人を怨む。救われないとは人の一生でしょう。

 人の一生は闇です。闇の中にいる人は闇の中ということを知らない。闇を闇と知らないから闇です。しかし、針の先ほどでも光を見れば闇を闇と知る。光は外から届く。光は未来から届く。だから、光を見た者は未来を見る。未来から現在を見る。救いは未来にある。現在に救いはない。救われないと知った者は救われないままに救われる。光は煩悩を照らすから煩悩が見える。煩悩が見えることを「心光摂護」という。

 『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。(同・第15章)

 見えたことを光という。なにが見えたか。心の六道が見えた。未来から現在が見えた。浄土から穢土が見えた。光は現在を照らすから未来という。未来は現在に超越して、しかも現在に臨んでいる。これを「出離生死」という。見えるようにして救う。煩悩という「わが身の事実」を見えるようにしていただいたから「智慧」という。智慧という「さとり」をいただいたので「信心のさだまる」という。悟りを開いたのではない。悟りの中に生まれた。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-10 10:40 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)