カテゴリ:真宗の眼目( 27 )

  二八九、如何なる大悲の恵みで、
  私のようなものが聞く気になり願う心になったやらと思えば、
  よく思えば願いそうな聞きそうな心でもなきものが、
  かく聞く気になり願う心になったのは、全く如来の大悲の御力なり。
  日輪に如何なる御徳があるかは知らねども、安穏にして暮すはみな日の力なり。
  一切草木の葉一枚まで、みな日の力によらぬものなし。
  光明名号の御慈悲で御助けと信ぜられたは、
  我が胸より出でしにあらず、全く光明名号の力なり。

  (香樹院語録)  

 歎異抄の後序にある親鸞聖人のご述懐、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と同じ味わいです。この法語には「仏を思う心は、我を思う仏の心の届かせられたる也 」という題がついています。書き出して何度も何度も味わいたい。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」



by zenkyu3 | 2017-01-30 06:36 | 真宗の眼目 | Comments(0)

阿弥陀様の御養育

e0361146_19503513.jpg  一四一、仰せられ候。阿弥陀様の御養育と云うは、
  親が子を抱きづめにして居るように、
  何処に居っても見て居ってやるから、
  危げなしに我をたのめ、と仰せらるる御念力に、
  つなぎ付けられたことじゃ。

  (香樹院語録)    

 この法語、聞き手がいない。香樹院師の素直な宗教感情の表白です。どこにいても、どんなときも、親に見守られているという安心が子を一人立ちさせる。仏の心といつもつながっている。いつでも仏の方から声がする。いつでも仏と対話できる。これが「憶念の心つねにして」(冠頭讃)ということです。

 仏は観念ではなく、生きて働く永遠に不変不滅の仏心ですから、いきいきと経験することが出来る。しかも、一人一人の身に埋め込まれている仏心で、二つない仏心ですから、みな同じ仏を経験する。一度経験したら二度と仏を忘れない。だから「摂取不捨」という。わたしは忘れても仏は忘れない。わたしの方からではなく、いつも仏の方から見守られている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」



by zenkyu3 | 2017-01-29 06:34 | 真宗の眼目 | Comments(0)

浄土真宗の信心

  一四二、我が機を信ずると云うは、御法を受くる機なり。
  悪人を正機として、助け給うが弥陀の大悲なれども、
  凡夫の自性は、如何ようにも我が身あさましと思われぬ故、
  この我が身あさましと思う心まで、如来の方より成就して與え給う也。
  されば、かかる者を、弥陀の願力にて御助けに預り、
  必ず往生をとぐるぞと、まことの信心は生ずる也。
  この如く我れあさましと信ずる心と、
  弥陀如来なればこそと信ずる心との二種の深信は、
  他力より與え給う者なれば、是れを他力の信と云う。
  この他力の信は、弥陀の本願を聞き開く時に頂くなり。
  これを釈迦如来は、「其の名号を聞きて、信心歓喜せよ」と教え給う。
  浄土真宗の信心と云うは、是れより外になしと心得べき也。

  (香樹院語録)    


 自分の顔を見ることはできない。見るときは鏡を用いる。わが心はわが心を見ることはできない。見えないから迷っていられる。我が儘でいられる。苦しんでも理由がわからない。心が見えるように智慧を与えて、迷いから救い上げるのが仏の慈悲です。だから、心が見えたことが信心をいただいたことです。心が見えることを懺悔といい、見えるようにして救ってくれた仏への感謝を讃嘆といいます。懺悔は機の深信であり、讃嘆は法の深信です。

 救ってくれた仏のお心の中にいて心の浅ましさを謝る生活を信心といい、信心は必ず二種深信を内容としています。初めて救われた経験を信の一念といい、仏との値遇体験を原点にして信心が深まっていく生活を往生といいます。どのように深まっていくかといえば、心への執着が浄化されていく。浄化されていくことの心の様子を多歓喜といいます。このようなことはわたしの努力の結果ではないので他力の信といいます。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-28 06:45 | 真宗の眼目 | Comments(0)

人間に生れぬる大事

e0361146_18545600.jpg  二九九、聞いて楽しむ身の上が、云うを手柄にするぞおかしき。
  云わぬを手柄と思うなよ。聞き得たままを繕ろわず云うて、なおしてもらえかし。
  聞いて覚えて、云うことに骨折る人ぞあわれなれ。聞きうることぞ大事也。
  聞き得た上の楽しみは、拙き言葉ありながら胸のありだけ語りあい、
  御慈悲喜ぶたのしさは、覚えた人は味しらず。
  忘れとうても忘られぬは如来をたのむ心也。

  三〇〇、安政五年正月二十三日、師京都に於て寂したまう。寿八十有七。
  御遺言に曰く。人間に生れぬる大事は、ただ後生の一つ也。誰れかこれを知らざらむ。
  然れども、よく知る人甚だまれなり。仏祖これがために大悲の胸を傷めさせたもう。
  ただ願くは念仏の行者、一味の志をもって、自信教人信のつとめをなして給わらば、
  予がなきあとの喜び、何事かこれに如かん。
  得やすくして得難きは他力の大信、守り難くして守りやすきは信の上のつとめ也。

  (香樹院語録)


 仏とは永遠に変わらない生きた働きであるから、われら一人一人の上に働きとして現れて、仏として経験されるものです。冷暖自知ともいいますが、仏は経験した者にしかわからない。しかし、仏を経験するのに知識はいらないし、経験したことを話すのにも知識はいらない。事実は事実だからです。しかし、仏の経験は「自信教人信」で伝わってきた仏教の伝統であるから、先達が積み上げてきた経験と教義を学んで、有縁の人が仏を経験できるように手助けすることが仏道です。

 人にもわかるように説明する工夫は自らの信心をはっきりさせ、仏との対話をさらに深めることにも役立ちます。だから、信を語ることは自慢でも利得でもなく、仏の慈悲がこの世に現れるためのお手伝いであり、わたしにとっては仏になるための予行練習になっているのです。しかし、中には信仰を生きるための心構えのように思っている人もいて独りよがりの信心から抜けられないでいる。あるいは、世間の辛さから逃げる場所として信仰が必要な人や、人生になんの疑問もなく教養のように仏教を学んでいる人もいる。

 無明という病を治す薬はあっても薬は飲まなくては効き目がない。薬の効能書きを読むばかりでなかなか服用しないのは、本当は苦しくないのでしょう。自覚症状がないのはかえって病が重篤だということもあります。信の一念とは「心が見えた」ということです。見えることが救いとなるのは心を離れて心の影響を受けなくなるからです。心が見えることを「智慧」といい、見えるようにして救うのが仏のお慈悲です。これを「廻向」といいます。薬を飲んで病が治った人は助けられたご恩があるわけですから、薬の効能と健康の有り難さを周りにも伝えはじめるのです。そのようにお育ていただいています。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-18 07:30 | 真宗の眼目 | Comments(0)

業ありて人なし

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

  よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。
  悪事(あしきこと)のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。
  故聖人のおおせには、「兎毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、
  宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。

  (歎異抄・第13章)

  常一主宰の我があるわけではなく、
  身口意の三業のその当体が我全体である。
  泣き、笑い、語る行動そのものの外に我はない。
  我という個体があるわけではなく、
  有為転変の行があるばかりである。
  身口意の三業が我であるとして、
  その三業の所行を、もし更に深く内観するとすれば、
  我をあげてそくばくの業があるばかりである。
  その三業を生みだす宿業があるばかりである。

  「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり」と仰せられた。  
  この親鸞とは、そくばくの業である。
  親鸞という以上、我ではない。
  我によって眺められたものである。
  自らを業道流転の迷いの果ての実業の凡夫と感じたる、
  そのなまなましき実感の表現である。
  この最愚低下の者こそ、
  弥陀をして五劫に思惟せしめたものという、
  悲痛なる感動のあらわれである。
  この業が自らの手を以てしては、
  如何ともすべからざるものであるという痛感である。

  (松原致遠著「わが名を称えよ」より)

 休みを利用してしばらくぶりに読んでいる。当時は「回向」も「宿業」も、もちろん「智慧」ということもわからなかった。なにがわかっていたかというとなにもわかっていなかった。それでも文章に力があって、伝えたいことがあると強く迫ってくる。もちろん致遠師には伝えることがある。もう、当時のようには読めないが、この本の強い感化力によって、わたしは念仏しようと思い立ったのです。法座を訪ね歩き、善知識を探して、竹内先生にお会いできたのは幸甚だった。

 さて、この書が伝えているのは「見える」ということ、この一点だろうと思う。見えることを「智慧」というが、見えるようにしてくれたのは仏です。救う心は救われない心と離れていないのであるから、救われない心が見えたら、それが救う心を知ったということです。煩悩は煩悩を知らない。知らないから迷っていられるということがある。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-05 21:14 | 真宗の眼目 | Comments(0)

愚者になりて往生す

  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがおは
  おおそらごとのかたちなり

  (正像末和讃)

  故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候いしことを、
  たしかにうけたまわり候いしうえに、
  ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、
  往生必定すべしとてえ(笑)ませたまいしをみまいらせ候いき。

  (末燈鈔)


 われらは生まれた時にすでに与えられた過去を持って生まれてくる。選ぶことはできない。過去の延長に現在があるが、不思議といって、なぜ、現在の境遇が与えられているのかはわからないようになっている。ただ現在という事実に投げ出されて生きているだけだ。すべては宿業である。与えられてくる境遇はわれらの力ではなんともできないもので、なんとかなったように思うこともあるが、なんとかなるようになっていただけのことだ。ほとんどのことはなんともならない。そもそも思い通りにならないならないと騒ぐのは思い通りにしたい善悪の思いだけであり、騒ぎたてる思い以外はなにも問題がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-28 12:31 | 真宗の眼目 | Comments(0)

人に負けて信を取れ

  総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえには、
  人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)

  勝つとは有限なもの。
  負けるという世界は広大無辺の――
  仏の智慧海は負けるというところにあり、
  その深さも広さも無限のものである。
  『蓮如上人御一代記聞書』には
  「人に負けて信を取れ」と言われてますね。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)


 「負ける」とは「受け入れる」ということです。人に負けて人を受け入れる。事実に負けて事実を受け入れる。境遇に負けて境遇を受け入れる。運命に負けて運命を受け入れる。受け入れられないことに負けて受け入れられないことを受け入れる。みな、負けられずに苦しんでいる。負ければ楽になる。しかし、負ける言い訳を探しているがなかなか見つけられない。とくに自分に負けられない。

 また、「無我」とは「わたしがない」ということです。「わたし」があるから受け入れられない人がいる。「わたし」があるから受け入れられない事実がある。「わたし」がなければすべてが受け入れられる。「無我」は大きさがないからすべてを受け入れる。すべてを受け入れるから「仏」という。また、「理」とは知性。「情」とは執着。知性の小ささを教え、執着の醜さを教えるから「仏の御慈悲なり」と。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-18 06:54 | 真宗の眼目 | Comments(2)