カテゴリ:真宗の眼目( 27 )

e0361146_09184316.jpg


  四五、秀存師ある時、「真心徹致するひとは、
  金剛心なりければ、三品の懺悔するひとと、
  ひとしと宗師はのたまえり」とある和讃の御意を尋ね給いければ、
  師はやや暫らく黙し給いて後、
  智慧第一の舍利仏でさえ、四十年の間聞いても分らぬ仏法を、
  少しばかり聞いて解了しようとは、無理なことじゃ。
  とのたまいければ、秀存師はただ、ヘイと云いて退出ありしを、
  傍見しまいらせしと、栗尾太助の話。

  (香樹院語録) 

 分別とは頭でつかむ。頭でつかんだ事実は観念であって事実ではない。仏法は分別以前の事実に立つ。この一点が仏法です。自分に都合のよい事実の解釈は頭の数だけあるが解釈以前の事実は一つしかない。考えても考えても考えている限りは事実には到達しない。いま起きていることを解釈するからです。考えを止めた一瞬がそのまま事実です。この無分別の一瞬を経験すれば求めるものなどなにもなかったと知る。これを経験させるために仏法はあるのです。われらはなに不足のない事実を生きているが心はいつも事実から遠く離れた処にあって苦しんでいる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-23 21:56 | 真宗の眼目 | Comments(2)

  八二、公儀ある民に我が田地なし。
  先祖ある子孫に我が家なし。
  親ある子に我が身なし。
  主人ある家来に我が命なし。
  師ある弟子に我が智慧なし。
  夫ある女に我が財なし。
  されば公儀に任せたる民に刑罰なし。
  先祖に任せたる子孫に過なし。
  親に任せたる子に不孝なし。
  主人に任せたる家来に不忠なし。
  師に任せたる弟子に迷いなし。
  夫に任せたる女に不貞なし。
  風に任せたる柳に雪折れなし。
  仏に任せたる衆生に迷いなし。

  然るに、任すまじき事ただ一つあり。
  「其のまま我が心にまかせては、
  必ず必ず誤りあるべし」と、先徳はのたまえり。
  今日の我れ人は、生々世々、我が心に任せし故、
  迷いの凡夫とはなりしぞかし。

  (香樹院語録)   

 わが心のままに生きることを放逸無慙という。わが心に騙されて、騙されていることにも気づかないほど巧みにわれらは騙されている。騙されていると気づけばわが心を疑うが、騙されているという智慧はわが心からは決して出てこない。わが心が騙しているからである。わが心を信ずるを自力、仏のお心を信ずるを他力という。わが心を捨てて仏を信ずる、これが一度の宗教的な決断である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-21 08:45 | 真宗の眼目 | Comments(0)

心に着すれば邪に同じ

  二二〇、『摩訶止観』の破法篇に、
  「觀法雖正着心同邪」
  (観法は正といえども心に着すれば邪に同じ)
  とのたまいて、正しき観念の法を以って思惟しても、
  その観念に於て執着の念が生ずると邪に同ずるゆえに、
  破してしまわねばならぬとあり。

  今も、ただ聖教によりて伺えども、
  一文に偏執し一理に固執する時は、
  その学問より其の執着に種々の道理をつけて、
  まことの聖教の真面目を失い、
  雖正同邪の風勢になり行くとすれば、
  相互の我が非を人より改めてもらい、
  共に共に相談すべきこと也。

  (香樹院語録)   

 われらは執着するものに縛られる。執着するものに繋がってしまう。求めて得られないことを「苦」というが、苦の原因は執着である。結果としての苦だけを問題にして原因としての執着が見えていないから「無明」である。「自業自得」といって、自分で造った苦であるから自分で解決できるのである。自力であれ、他力であれ、内なる執着を破ることを教えるのが仏道である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-20 06:25 | 真宗の眼目 | Comments(0)

これなりで助けられる

  七〇、新井の妙意、御病中に参り申し上げて云うよう。
  いよいよこれなりで、助けられるので御座りますか。師の曰く。
  そうじゃそうじゃ、勧めるものも其処をよく教え、
  聴聞するものも其処をよく聞かねばならぬことじゃ。

  (香樹院語録)  

 なにから救われるかといえば、自分の心から救われる。心あるゆえに苦しむ。どんな心か。事実を受け入れられずにあれこれ理由を探す心だ。事実を疑い納得できる理由を探す。しかし、納得できる理由はない。事実を受け入れない心は事実に苦しめられ続ける。苦しみから救われるには納得したい心を捨てる。

 事実を疑う心を捨てる。理屈ではない。理屈に立った心からすれば「なにもわからない」となったところが救いである。わかりたい心が捨てられた。「わかろう」が自力のはからい。「わからなくていい」が他力のはからいなし。頭の中の妄念妄想を捨てて事実に立つ。事実は大地、こぼれ落ちようがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-19 10:07 | 真宗の眼目 | Comments(0)

  三三、みな人は、信をとらんと思い、
  また、たのみ心にならんと思えり。
  それはあんまり、欲が深すぎると云うもの也。
  取ることばかりに骨折って、
  自力を捨てることに骨を折ることを知らぬの也。
  碁をうつにも捨石が大事なり。
  信を得るにも、雑行をすてることが大事也。

  香樹院語録)

 「自力を捨てる」とは具体的には自分の考えを捨てる。主義主張、信念、価値観、正義といった尺度を捨てる。起きていることに"いい悪い"を言わない。起きたことに"好き嫌い"を言わない。起きていること、起きたことは"わたしに関係なく"起きている。起きていることになにか影響を与えられると考えるなら傲慢である。環境を支配できるという考えは滑稽ですらある。わたしに出来ることは起きたことに対応することだけで、なぜ起きたかなどと理由を考えてもわからない。起きたことをそのまま頂いて、とくになにもない。それを「自力を捨てる」という。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-17 21:52 | 真宗の眼目 | Comments(0)

仏の心を賜わるなり

e0361146_23274032.jpg


  一二二、仏のこころを知る者は、
  仏の心を賜わるなり。
  故に大悲の御心を聞かねばならぬ。

  (香樹院語録)

 煩悩がない悟りの境地を涅槃という。仏教ではそう教えているのに、真宗では「煩悩を断たずに涅槃を得る」という。悟るのではなく、信ずる心一つで、煩悩をもったまま悟りの境地である涅槃に入るというのです。こんなことはありえないことだが、実際に起こることだから「誓願不思議」という。

 仏の心を涅槃という。だから仏の心と感応道交すると涅槃に入る。煩悩の身をもって仏になることはないが、煩悩の身をもって涅槃に入ることはできる。自分の心より高次の心、仏の心の中に「摂取不捨」される。涅槃に入ると無我になる。無我になると仏の声が聞こえる。自分の心以外に仏の心があると知った。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-13 23:18 | 真宗の眼目 | Comments(0)

心が何と思うとも

  一〇六、ある人、今にも死のうと思えば、
  もう一度御目にかかりてと云うような、心で御座りますと述ぶれば、仰せに。
  それが肝要の所で、それが疑いの根じゃ。それで、よく聞けよく聞けと云う事じゃ。
  能く能く聞くと、今迄は何を疑うて居りましたやらと、如来様に御縋り申す心が信心決定じゃ。
  是一つさえ訳が分ったら、日本国がひっくり返っても、浄土参りに間違いはない。
  世上で信心安心の訳聞いて、此処でこう聞いた彼処でああ聞いたが、
  どちらが真実やらと云う様な詮索沙汰をやめにして、
  誰がどう云うとも、心が何と思うとも、
  阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃものをと思えば、
  こんなたしかな事はないではないか。

  (香樹院語録)   

 この法語には「心が何と思うとも」というタイトルがついています。われらの心は肉体に附属している心なので心に従うということは肉体の欲求に従うということです。肉欲に縛られてわれらはありとあらゆる苦悩を受ける。このことを知らずに苦しんでいる。そのような姿を仏教は「無明」と教えている。「心が何と思うとも」心の相手をしない。心に振り回されない。心の主人となって奴隷にならない。心を離れれば離れるほど苦しみはなくなっていく。これが仏教です。

 自分の心を一度離れる経験を「即得往生」といい、自分の心に支配されない生活を「往生」といいます。「阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃもの」、なにから助けていただいたか。自分の心から助けていただいた。長い間だまされ続けてきた自分の心から助けていただいた。今まで心にどれ程だまされてきたか。「心が何と思うとも」もう心の相手にはならない。信仰とは、仏のお心と自分の心と、どちらを信じますかという話です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-12 21:53 | 真宗の眼目 | Comments(0)

心をすてて

  一〇四、或る人申し上ぐるよう。
  心にしっかりと落ち付きとう御座ります、と。
  仰せに。それは自力のこころ。それすてて能く骨折って聞け。
  左様なれば、心をすてて、仰せに順いまするで御座りますか。
  仰せに。そうじゃ、そうじゃがそれは、我が力では順われぬ。

  (香樹院語録) 
 

 わたしの心は落ち着かない。あれやこれやととにかくうるさい。そんなことはわかりきっている。仏のお心は静かで平和だ。仏のお心を涅槃という。わたしの落ち着かない心が落ち着くのは死ぬときだから、落ち着かないわたしの心はそのままにしておいて、静かで平和な仏のお心の中に生まれようというのが真宗の修行です。正信偈に「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と教えていただいている通りです。
 
 涅槃を(少分)経験させて涅槃を教え涅槃の完成を求めさせるのです。この涅槃の境地を「浄土」といい、迷いの心まるごとを摂取して涅槃の境地に入れてしまうのが弥陀の本願です。悟りの境地を自ら得たと思えば自力で、与えていただいたと思えば他力です。自力は悟っても悟った自分が残っているので、もう一つ他力のお助けがいるのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-11 12:53 | 真宗の眼目 | Comments(0)

  十四、大事な後生と知りながら大事にならぬは、
  この世の愛欲貪欲の手強さゆえと、聞けども聞けども地獄も恐しからず、
  極楽もとうとまれぬは、邪見の強き故なり。
  よくよく聞けば、疑いの晴れねばならぬ浄土往生に、
  疑いのはれかぬるは、自力執心の迷いの心が手強き故のことなり。
  是れが離れねば往生すべき身とはなられぬ。
  然れども、己が心にて、是れを離るることがならぬ故に、
  御成就の他力回向の大信心なり。

  (香樹院語録)

 本願の救いは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことです。心から出てくる思いを「煩悩」といいます。心になにか価値があるように思うことを「自力執心」といい、心から出てくる思いを「自分」だと思うから、思いを実現しようと努力する。思い通りになったら幸せで、思い通りにならなかったら不幸と、いたって単純です。心を「なくせ」と仏教は言わない。心を「離れろ」というのです。心に使われるな、心の主人になれと言うのです。

 心を離れて心を見る。心がつくる世界を出て、仏のさとりの境地(涅槃)に入る。このことを「不断煩悩得涅槃」とも「往生」ともいいます。煩悩の身のまま涅槃の境地に生まれさせようというのが「弥陀の本願」です。ちなみに、この法語には「離れられぬを離して下さる 」とタイトルされています。心を離れると心が見える。心が見えることを「光明」といいますが、自分の力で自分の心を離れることはできない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-08 23:15 | 真宗の眼目 | Comments(0)

異時因果と同時因果

  七三、断見、常見  
  断見ーーー因果業報を知らず。地獄極楽をなしと執ず。  
  常見ーーー無常迅速を知らず。他力の方便を知らず。  

  (香樹院語録)

 異時因果と同時因果という。地獄極楽を死後とすれば異時因果であり、現在とすれば同時因果である。極度の精神ストレスが見る世界はまさに地獄であり、死ねば地獄に墜ちると思う。地獄があれば極楽がある。信心の智慧が開く心の世界が極楽であり、現在に感得するから同時因果という。信心がなければ感得できないので、不信の心は未来に生まれるところと観念するから異時因果である。すなわち、現生正定聚は十八願の同時因果であり、未来往生は十九願の異時因果である。

 心が外の世界を見るから内と外は因果関係にある。たとえば、異性を見るのは生殖の準備ができたということであり、金や地位を見るのは欲望に縛られているだけの心とあわせ鏡である。われらは死ねば終わりの命である。死ねば終わりの命が死なない命に出遇うのが信仰である。死なない命に出遇うから安心して死んでいけるのである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-04 10:44 | 真宗の眼目 | Comments(4)