念仏の歴史

  教えというものは、やはり目覚めた人を通して、この世の中に生きてくる。
  そうして、目覚めた人があって、
  その目覚めた方が「自分はこうやって目覚めた」とおっしゃることによって、
  我々も、自分自身の身の事実を知らされ、
  そして「真実はなにか」ということに目覚めていくことができるんだ。

  (竹内維茂著「称名念仏の大悲」より)


 わたしは善知識となれる方を探していた。やがて、遇うべくして竹内先生にお遇いした。念仏は現代にも脈々と生きており、本の中だけでしか知らなかった念仏だが、生きた仏として先生が目の前で説法されていた。自然と手が合わさる。わたしにとって竹内先生は生きてそこにおられる仏だった。一方で、最近、とくにそう思うようになったが、竹内先生もまた、わたしを待っていただろうと。先生はすぐにわたしに気づいた。気づくだろか、いつ気づくだろかと思っていたが、すぐに気づいてくださった。初めて先生のご自宅を訪ねたのは三十六になったばかりの十月だった。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-26 08:32 | 念仏のすすめ | Comments(0)

死の不安

e0361146_20375696.jpg  おのおの十余か国のさかいをこえて、
  身命をかえりみずして、
  たずねきたらしめたまう御こころざし、
  ひとえに往生極楽のみちを問いきかんがためなり。

  (歎異抄・第2章)

 わたしたちが本当に知りたいこと、心の底から本当に知りたいと願っているのは「なぜ、生まれてきたのか」ということです。人間だけがこの問いを持つ。六道輪廻して、ようやく人間に生まれたのも前世に宿題を残していたからです。このたびの生で再びこの問いに答えがなかったら、死に臨んで、やるべきことをし残したと、取り返しのつかない後悔を残す。この後悔が成仏を妨げる。わたしたちが死に臨んで死を恐れるのは、やるべきことをやらなかった人生だったことを思い出すからです。身命にかえても聞きとげなくてはならないことがある。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-24 07:33 | 念仏のすすめ | Comments(0)

空しく終わる人生

  本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし

  (高僧和讃)

  しかれば名を称するに、
  能く衆生の一切の無明を破し、
  能く衆生の一切の志願を満てたまう。

  (教行信証・行巻)


 「無明」とは悟り(智慧の光)がない。悟りがないとは、自分がわからない。生まれてきた理由がわからない。わからないままにとりあえず生きている。根本的な問題の解決を先送りして物質生活を楽しんでいる。しかし、生きていれば答えが出たなんてことはない。生まれる前を知らず、死んだ後を知らない。過去も未来もわからないから「現在」の意味がわからない。

 意味がわからないから、まずは肉体の欲求を満足させるために生きよう、と。それを「無明」という。だから「無明を破し」とは悟りが開けた。「一切の志願を満てたまう」とは「未来」がわかった。未来がわかって、現在も過去もわかった。本当に願っていたことは、自分が誰かが知りたかった。生まれてきた理由が知りたかった。

 過去世の命がやり残したことがあった。だから再び生まれてきた現在がある。今、やり残したことをやった。もう、再び生まれ変わることはない未来がある。それを「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき」という。あなたは本当はなにを望んでいるのだろうか。本当のところ、あなたはそれを知らない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-11 19:48 | 念仏のすすめ | Comments(0)