e0361146_10002874.jpg


  八一、或る人、後生と云うことを存じませぬ、
  と申し上げたるとき、仰せに。
  それ知らるるまで容易でない。

  (香樹院語録)  

 後生は仏である。色も形もない一如になる。汚れも穢れもない空である。空から一切が生じ、一切は空に還る。還るところがわからずに迷っている。安心して死ぬことができない。後生とは生の後ろ、生の背景である。背景がわかってこそ今がわかる。還るところがわかるから安心して迷える。最後はそこに還る。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-18 22:55 | 念仏のすすめ | Comments(0)

e0361146_21584024.jpg


  四十四、死ぬまいと思うて居るうちに死ぬる。
  真宗の者は、地獄へ墮ちはせまいと思うて堕ちる。
  他宗のものは業がつよくて堕ちる。
  仏法を知らぬものは、地獄はありませぬと思うて堕ちる。
     

  五〇、或る人の尋ねに。
  私は地獄へ堕ちるばかりの心で御座ります。
  仰せに。地獄へ堕ちるばかりの心え、聞くたびに、
  ただ嬉しいばかりの御法なり。

  (香樹院語録) 

 「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄・第2章)。この世は地獄である。現在が地獄である。前の生も地獄、次の生も地獄、われらは地獄しか知らないから地獄とも知らずに生きている。理由もわからず苦しんでいる。われらは地獄を生きる同類で、生きる惨めさは一切の有情のありのままの事実である。内側を見ればみな惨めなものである。外を見ても惨めなものである。惨めを惨めと知ったはよくよくのお慈悲である。みな地獄を地獄とも知らずに堕ちて行くのに、地獄一定と知ったはよくよくのお慈悲である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-05 11:22 | 念仏のすすめ | Comments(0)

信を得て念仏する喜び

  五九、此世の喜びは人々同じからず。
  浄土を願う身には誰もかれも同じ数多き喜びあり。  
  一、三悪道をはなれて、人間に生れたる喜び。  
  一、仏法に値いまいらせたる喜び。  
  一、この弘願他力に値いまいらせたる喜び。  
  一、六根具足の喜び。  
  一、悪縁に障えられず、聴聞することの出来る喜び。  
  一、信を得て念仏する喜び。  
  この喜びを知るならば、浮世の不足は云うては居られぬほどに、
  よくよく心得られよ。

  (香樹院語録)  
  

 信仰は一人一人の内心の問題である。一人一人の内心の問題であるから他人はまったく関係ない。仏は一人一人の心の中におられるのだから、心の中で仏と心通じ合えば、それが信仰である。仏と一対一の関係に入ることを信仰というのです。仏と心が通じ合っているかどうかは誰よりも本人がわかっていることで、人は誤魔化せても自分は誤魔化せない。信を得て念仏する喜びとは、やるべきことをやり終えた安心、安堵だろうか。

 南無阿弥陀仏


 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-30 22:22 | 念仏のすすめ | Comments(0)

心安楽

  四、寿命は聞法のためなり。
  五歳で死するもあり、十五二十で死するもあり。
  それにたくらぶれば、後生は一大事と心づく迄の命を得て、
  仏法聴聞致すことになったは、大なる喜びなり。
  もはや寿命の役目は相済んだと思えば心安楽。

  (香樹院語録)


 法を聞くだけの人生だった。竹内先生にお会いして「念仏者が生まれた」と喜んでいただいたことが思い出といえば思い出である。先生にお会いしてから信体験があった。この逆だったら師をいただく喜びがなかった。なにかを得たと思って喜んでいた時期もあったが、そんなことももうどうでもよくなった。どのようにしたって仏のお心からこぼれ落ちることはないのであるから、心安楽。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-03-29 23:00 | 念仏のすすめ | Comments(0)

何事は覚えずとも

  三一、何事は覚えずとも、かかるものを御助けの御慈悲、
  命終らば仏になることの嬉しやと云う味わい丈は、是非に覚えねばならぬ。

  (香樹院語録)

 「後生」とは死後の命ではない。死後という時間も場所もない。不思議なことに「今生」(わたし=闇)が見えたから「後生」(仏=光)である。今生を超えて今生を照らす悟りの光を「後生」という。今生ではないから後生という。わたしがあってわたしの死後があるという外道の話ではない。今に無我(仏)にならないから「命終らば」である。「かかるもの」と見えるのが「御助け」である。たまたまの命が永遠の命に出遇ったのである。「命終らば仏になる」現在を「嬉しや」と生かしていただくだけである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-27 07:17 | 念仏のすすめ | Comments(0)

骨折って聞くべし

  二二、得た得たと思うは得ぬのなり。
  得ぬ得ぬと思うはなお得ぬのなり。
  そんなことではない、と仰せられたり。

  一〇、頼めとあるも、すがれとあるも、
  称えよ称えよとあるも、皆助くる助くるの仰せなり。
  天が地となり、地が天となる例があるとも、
  間違わさぬ、疑うなよ疑うなよと、
  阿弥陀様の直の仰せと聞こえるまで、骨折って聞くべし。

  (香樹院語録)

 「得た」と思って満足するは「自分の心」でしょう。「得た」というのは「悟った」というのでしょう。「信心を得た」というのでしょう。結局は「自分の心」を出ていないと、香樹院師は言っているのです。仏法は「出離生死」といって「自分の心」を出ること、この一点しかない。出たか出ないか、これ以外にない。わかりやすい話だが、こんな難しいこともない。「骨折って聞くべし」。真面目に聴聞している人はこれに一生を懸けている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-15 19:00 | 念仏のすすめ | Comments(0)

おれはおれの後生がある

  一九三、 京都西六條の人明信寺宝洲、若年の頃師に謁し、
  私は後生に大事がかかりませぬ、と申し上ぐ。
  師はただおれはおれの後生がある。その方は其方で心配したがよい。
  一人一人の後生じゃ。他人のことは、おれの知ることでない。
  と、一言の下に郤けられけり。明信寺それより、
  いよいよ来世のことは己が一大事なりと云うことに打ち驚き、
  師に随うて遂に信を獲られき。

  (香樹院語録)


 信心をいただくことは過去世までの宿善の開発であるから、宿善のないものは現世で信心をいただくことはない。これは仏の御はからいです。だから、親鸞は「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証・総序)と言われたし、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄・第6章)とも言われた。生は無生無滅の仏心の自覚を目的としていて、三世の流転は仏心の自覚まで延々と続く。

 ありがたくも人に生まれ、人としての苦難に出会うのも仏の御はからいと喜ばせていただける。後生が一大事となるのも仏の御はからいです。だから、わたしにとっての信心は自分が喜ばせていただくことであって、人が喜ぶのは仏の御はからいで、わたしがどうするという事柄ではない。わたしが喜ぶのを見て人が喜ぶということもあるかもしれないが、それもまた仏の御はからいです。「往還の廻向は他力による」(正信偈)と教えていただいている。わたしの手柄などというものはなにもない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-27 06:26 | 念仏のすすめ | Comments(2)

信心に心掛くべし

  一七四、一生尽くれども希望は尽きず。
  此望みかなえたらば聴聞に精出さん、
  ここまでやったら後生を願わんなどと思えども、
  命があればあるほど、望みは多くならんとも薄くはならじ。
  よりて覚如上人は、今日ばかり思う心を忘るなよ、
  さなきはいとどのぞみ多きに、と詠み給えり。
  家が貧くとも餓鬼にまさるべし。
  思うこと叶わずとも地獄の苦に比ぶべからず。
  只今只今と取りつとめて不自由な中より信心に心掛くべし。

  (香樹院語録)


 この身の過去世はわからないが、現在は過去世の結果である。これだけははっきりしている。この身にないものは現れないからだ。この身の来世はわからないが、現在に積み上げた悪業の集積の結果が未来であることははっきりしている。 業は途切れることはないからだ。知らない過去世の宿業に縛られ、なぜそうするのかもわからずそうしているのがわれらの現実、この身の事実である。

 過去が闇なら現在も闇、闇を闇とも知らずに過ぎる現世なら、後生もまた闇である。未来に光がない。死ねば終わりと言って終わらないのが業である。無責任に生きた結果は自ら刈り取らなくてはならない。因果の法は厳格である。希望希望といって、生きる希望を追いかけてきたが、最後は闇に落ちて行く未来に希望はない。

 南無阿弥陀仏 

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-25 11:28 | 念仏のすすめ | Comments(0)

自己本位の心

  「よく汝が心を護れ、心をして放逸ならしむなかれ。」と
  釈尊が仰せられるのは、
  よく心の親の慈悲心を示されたものである。
  心の親の見そなわす前に、
  自らを慎ましく省みることなくして生きるということは、
  灯りなくして暗夜をゆくが如しと仏も説かれている。

  この心の親の、大きな心の中にある自らを見出したとき、
  必ず懺悔のこころが生まれる。
  何故に懺悔のこころが生まれるかというと、
  人間はすべて自己本位の心をもって居る。
  むしろ自己本位のこころそのものが人間であるから、
  それは自分の顔の如く、自分の目には見えない。
  自分の目に見えないほどに、それは根強いものである。

  この自己本位の心が迷いの根本であり、
  一切の罪業、罪悪、煩い、悩みの生まれて来る大根であり、
  それは宇宙の真理、真実の法に背くものである。
  もしこの心をもって終始すれば、それは自己を滅ぼす道であり、
  その生涯をして全然意味なからしめるものである。
  それは宇宙の真理に背くものであるから、
  真実に生きることを許されぬものなのです。

  (櫛谷宗則編松原致遠著「わが名を称えよ」柏樹社1989年刊)


 松原致遠師の「わが名を称えよ」は現在絶版となっていますが古書としては手に入るようです。二十の半ば、内山興正老師の著書に出会い仏教を学び始めましたが、行としての禅にはついに縁づかず、十年ののち機が熟したのでしょうか、この本に出会って念仏をしようと決心しました。この本に出会って半年後、竹内維茂先生をお訪ねしました。

 この本の編者である櫛谷宗則師は内山老師の直弟子です。念仏に導いてくださった致遠師の文章をもう一度読み直してみようと思います。致遠師、宗則師の法恩に報いたいと思うからです。さて、自分の心が見えることを「智慧」といいます。この智慧を獲て本当の仏道が始まります。智慧によって自分の心を語れば、それは自ずと「懺悔」となり、仏を語れば「讃嘆」となるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-02 14:46 | 念仏のすすめ | Comments(0)

わが名を称えよ

  そして、念仏申せば自分が見える、
  自分が見えるということは自分の煩悩が見えるということが、
  おぼろに感じられて目の前に一本の細い道が開けてきました。
  それが先生のおっしゃっていた智慧の念仏、内観の念仏でありました。
  内観とは自分の煩悩が照らされることです。
  自分の煩悩が照らされて、その煩悩を阿弥陀様にお任せして、
  流れるままにひっつかず手放しているのが往生浄土の道である
  というようにお説き下されたのは、致遠先生しか私は知りません。
  念仏申せば内観深まり、内観深まればいよいよ念仏される、
  申しながら深まりながら申しながらという、
  そこが、ただ一つの眼目に違いありません。
  そしてそれが私を生かし、
  今日を新たに歩ませて下されるもとの力になっているのであります。

  (榎本栄一)

 榎本栄一氏は世に知られた仏教詩人ですが、上記の文章は松原致遠師の著書『わが名を称えよ』(柏樹社・1989年刊)の序文として書かれたものです。短い文章ですが、わたしが伝えたいと思っている念仏のことが「内観の念仏」として要領よく簡潔に述べられています。誇張ではなく、これで「わたしの言いたいことは全部」と言ってもいいくらいです。

 当時、仕事に失敗してなにもすることがなかったわたしは、この本を三か月間、朝から晩まで毎日読んで念仏をする決心をしました。三か月後には竹内先生を訪れ、さらに三か月後には信体験を獲たことを考えると、わたしを念仏に導いてくれた本当に本当に大切な本です。それほど大切な本ですが、残念ながら今は廃刊になっています。

 南無阿弥陀仏

 NHK教育テレビ「こころの時代」
 信心の風光をうたう(詩人榎本栄一)



by zenkyu3 | 2017-01-01 01:03 | 念仏のすすめ | Comments(4)