カテゴリ:念仏のすすめ( 9 )

何事は覚えずとも

  三一、何事は覚えずとも、かかるものを御助けの御慈悲、
  命終らば仏になることの嬉しやと云う味わい丈は、是非に覚えねばならぬ。

  (香樹院語録)

 「後生」とは死後の命ではない。死後という時間も場所もない。不思議なことに「今生」(わたし=闇)が見えたから「後生」(仏=光)である。今生を超えて今生を照らす悟りの光を「後生」という。今生ではないから後生という。わたしがあってわたしの死後があるという外道の話ではない。今に無我(仏)にならないから「命終らば」である。「かかるもの」と見えるのが「御助け」である。たまたまの命が永遠の命に出遇ったのである。「命終らば仏になる」現在を「嬉しや」と生かしていただくだけである。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-27 07:17 | 念仏のすすめ | Comments(0)

骨折って聞くべし

  二二、得た得たと思うは得ぬのなり。
  得ぬ得ぬと思うはなお得ぬのなり。
  そんなことではない、と仰せられたり。

  一〇、頼めとあるも、すがれとあるも、
  称えよ称えよとあるも、皆助くる助くるの仰せなり。
  天が地となり、地が天となる例があるとも、
  間違わさぬ、疑うなよ疑うなよと、
  阿弥陀様の直の仰せと聞こえるまで、骨折って聞くべし。

  (香樹院語録)

 「得た」と思って満足するは「自分の心」でしょう。「得た」というのは「悟った」というのでしょう。「信心を得た」というのでしょう。結局は「自分の心」を出ていないと、香樹院師は言っているのです。仏法は「出離生死」といって「自分の心」を出ること、この一点しかない。出たか出ないか、これ以外にない。わかりやすい話だが、こんな難しいこともない。「骨折って聞くべし」。真面目に聴聞している人はこれに一生を懸けている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-15 19:00 | 念仏のすすめ | Comments(0)

おれはおれの後生がある

  一九三、 京都西六條の人明信寺宝洲、若年の頃師に謁し、
  私は後生に大事がかかりませぬ、と申し上ぐ。
  師はただおれはおれの後生がある。その方は其方で心配したがよい。
  一人一人の後生じゃ。他人のことは、おれの知ることでない。
  と、一言の下に郤けられけり。明信寺それより、
  いよいよ来世のことは己が一大事なりと云うことに打ち驚き、
  師に随うて遂に信を獲られき。

  (香樹院語録)


 信心をいただくことは過去世までの宿善の開発であるから、宿善のないものは現世で信心をいただくことはない。これは仏の御はからいです。だから、親鸞は「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証・総序)と言われたし、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄・第6章)とも言われた。生は無生無滅の仏心の自覚を目的としていて、三世の流転は仏心の自覚まで延々と続く。

 ありがたくも人に生まれ、人としての苦難に出会うのも仏の御はからいと喜ばせていただける。後生が一大事となるのも仏の御はからいです。だから、わたしにとっての信心は自分が喜ばせていただくことであって、人が喜ぶのは仏の御はからいで、わたしがどうするという事柄ではない。わたしが喜ぶのを見て人が喜ぶということもあるかもしれないが、それもまた仏の御はからいです。「往還の廻向は他力による」(正信偈)と教えていただいている。わたしの手柄などというものはなにもない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-27 06:26 | 念仏のすすめ | Comments(2)

信心に心掛くべし

  一七四、一生尽くれども希望は尽きず。
  此望みかなえたらば聴聞に精出さん、
  ここまでやったら後生を願わんなどと思えども、
  命があればあるほど、望みは多くならんとも薄くはならじ。
  よりて覚如上人は、今日ばかり思う心を忘るなよ、
  さなきはいとどのぞみ多きに、と詠み給えり。
  家が貧くとも餓鬼にまさるべし。
  思うこと叶わずとも地獄の苦に比ぶべからず。
  只今只今と取りつとめて不自由な中より信心に心掛くべし。

  (香樹院語録)


 この身の過去世はわからないが、現在は過去世の結果である。これだけははっきりしている。この身にないものは現れないからだ。この身の来世はわからないが、現在に積み上げた悪業の集積の結果が未来であることははっきりしている。 業は途切れることはないからだ。知らない過去世の宿業に縛られ、なぜそうするのかもわからずそうしているのがわれらの現実、この身の事実である。

 過去が闇なら現在も闇、闇を闇とも知らずに過ぎる現世なら、後生もまた闇である。未来に光がない。死ねば終わりと言って終わらないのが業である。無責任に生きた結果は自ら刈り取らなくてはならない。因果の法は厳格である。希望希望といって、生きる希望を追いかけてきたが、最後は闇に落ちて行く未来に希望はない。

 南無阿弥陀仏 

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-25 11:28 | 念仏のすすめ | Comments(0)

自己本位の心

  「よく汝が心を護れ、心をして放逸ならしむなかれ。」と
  釈尊が仰せられるのは、
  よく心の親の慈悲心を示されたものである。
  心の親の見そなわす前に、
  自らを慎ましく省みることなくして生きるということは、
  灯りなくして暗夜をゆくが如しと仏も説かれている。

  この心の親の、大きな心の中にある自らを見出したとき、
  必ず懺悔のこころが生まれる。
  何故に懺悔のこころが生まれるかというと、
  人間はすべて自己本位の心をもって居る。
  むしろ自己本位のこころそのものが人間であるから、
  それは自分の顔の如く、自分の目には見えない。
  自分の目に見えないほどに、それは根強いものである。

  この自己本位の心が迷いの根本であり、
  一切の罪業、罪悪、煩い、悩みの生まれて来る大根であり、
  それは宇宙の真理、真実の法に背くものである。
  もしこの心をもって終始すれば、それは自己を滅ぼす道であり、
  その生涯をして全然意味なからしめるものである。
  それは宇宙の真理に背くものであるから、
  真実に生きることを許されぬものなのです。

  (櫛谷宗則編松原致遠著「わが名を称えよ」柏樹社1989年刊)


 松原致遠師の「わが名を称えよ」は現在絶版となっていますが古書としては手に入るようです。二十の半ば、内山興正老師の著書に出会い仏教を学び始めましたが、行としての禅にはついに縁づかず、十年ののち機が熟したのでしょうか、この本に出会って念仏をしようと決心しました。この本に出会って半年後、竹内維茂先生をお訪ねしました。

 この本の編者である櫛谷宗則師は内山老師の直弟子です。念仏に導いてくださった致遠師の文章をもう一度読み直してみようと思います。致遠師、宗則師の法恩に報いたいと思うからです。さて、自分の心が見えることを「智慧」といいます。この智慧を獲て本当の仏道が始まります。智慧によって自分の心を語れば、それは自ずと「懺悔」となり、仏を語れば「讃嘆」となるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-01-02 14:46 | 念仏のすすめ | Comments(0)

わが名を称えよ

  そして、念仏申せば自分が見える、
  自分が見えるということは自分の煩悩が見えるということが、
  おぼろに感じられて目の前に一本の細い道が開けてきました。
  それが先生のおっしゃっていた智慧の念仏、内観の念仏でありました。
  内観とは自分の煩悩が照らされることです。
  自分の煩悩が照らされて、その煩悩を阿弥陀様にお任せして、
  流れるままにひっつかず手放しているのが往生浄土の道である
  というようにお説き下されたのは、致遠先生しか私は知りません。
  念仏申せば内観深まり、内観深まればいよいよ念仏される、
  申しながら深まりながら申しながらという、
  そこが、ただ一つの眼目に違いありません。
  そしてそれが私を生かし、
  今日を新たに歩ませて下されるもとの力になっているのであります。

  (榎本栄一)

 榎本栄一氏は世に知られた仏教詩人ですが、上記の文章は松原致遠師の著書『わが名を称えよ』(柏樹社・1989年刊)の序文として書かれたものです。短い文章ですが、わたしが伝えたいと思っている念仏のことが「内観の念仏」として要領よく簡潔に述べられています。誇張ではなく、これで「わたしの言いたいことは全部」と言ってもいいくらいです。

 当時、仕事に失敗してなにもすることがなかったわたしは、この本を三か月間、朝から晩まで毎日読んで念仏をする決心をしました。三か月後には竹内先生を訪れ、さらに三か月後には信体験を獲たことを考えると、わたしを念仏に導いてくれた本当に本当に大切な本です。それほど大切な本ですが、残念ながら今は廃刊になっています。

 南無阿弥陀仏

 NHK教育テレビ「こころの時代」
 信心の風光をうたう(詩人榎本栄一)



by zenkyu3 | 2017-01-01 01:03 | 念仏のすすめ | Comments(4)

念仏の歴史

  教えというものは、やはり目覚めた人を通して、この世の中に生きてくる。
  そうして、目覚めた人があって、
  その目覚めた方が「自分はこうやって目覚めた」とおっしゃることによって、
  我々も、自分自身の身の事実を知らされ、
  そして「真実はなにか」ということに目覚めていくことができるんだ。

  (竹内維茂著「称名念仏の大悲」より)


 わたしは善知識となれる方を探していた。やがて、遇うべくして竹内先生にお遇いした。念仏は現代にも脈々と生きており、本の中だけでしか知らなかった念仏だが、生きた仏として先生が目の前で説法されていた。自然と手が合わさる。わたしにとって竹内先生は生きてそこにおられる仏だった。一方で、最近、とくにそう思うようになったが、竹内先生もまた、わたしを待っていただろうと。先生はすぐにわたしに気づいた。気づくだろか、いつ気づくだろかと思っていたが、すぐに気づいてくださった。初めて先生のご自宅を訪ねたのは三十六になったばかりの十月だった。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-26 08:32 | 念仏のすすめ | Comments(0)

死の不安

e0361146_20375696.jpg  おのおの十余か国のさかいをこえて、
  身命をかえりみずして、
  たずねきたらしめたまう御こころざし、
  ひとえに往生極楽のみちを問いきかんがためなり。

  (歎異抄・第2章)

 わたしたちが本当に知りたいこと、心の底から本当に知りたいと願っているのは「なぜ、生まれてきたのか」ということです。人間だけがこの問いを持つ。六道輪廻して、ようやく人間に生まれたのも前世に宿題を残していたからです。このたびの生で再びこの問いに答えがなかったら、死に臨んで、やるべきことをし残したと、取り返しのつかない後悔を残す。この後悔が成仏を妨げる。わたしたちが死に臨んで死を恐れるのは、やるべきことをやらなかった人生だったことを思い出すからです。身命にかえても聞きとげなくてはならないことがある。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-24 07:33 | 念仏のすすめ | Comments(0)

空しく終わる人生

  本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし

  (高僧和讃)

  しかれば名を称するに、
  能く衆生の一切の無明を破し、
  能く衆生の一切の志願を満てたまう。

  (教行信証・行巻)


 「無明」とは悟り(智慧の光)がない。悟りがないとは、自分がわからない。生まれてきた理由がわからない。わからないままにとりあえず生きている。根本的な問題の解決を先送りして物質生活を楽しんでいる。しかし、生きていれば答えが出たなんてことはない。生まれる前を知らず、死んだ後を知らない。過去も未来もわからないから「現在」の意味がわからない。

 意味がわからないから、まずは肉体の欲求を満足させるために生きよう、と。それを「無明」という。だから「無明を破し」とは悟りが開けた。「一切の志願を満てたまう」とは「未来」がわかった。未来がわかって、現在も過去もわかった。本当に願っていたことは、自分が誰かが知りたかった。生まれてきた理由が知りたかった。

 過去世の命がやり残したことがあった。だから再び生まれてきた現在がある。今、やり残したことをやった。もう、再び生まれ変わることはない未来がある。それを「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき」という。あなたは本当はなにを望んでいるのだろうか。本当のところ、あなたはそれを知らない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-12-11 19:48 | 念仏のすすめ | Comments(0)