我を思う仏の心

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  二八九、如何なる大悲の恵みで、
  私のようなものが聞く気になり願う心になったやらと思えば、
  よく思えば願いそうな聞きそうな心でもなきものが、
  かく聞く気になり願う心になったのは、全く如来の大悲の御力なり。
  日輪に如何なる御徳があるかは知らねども、
  安穏にして暮すはみな日の力なり。
  一切草木の葉一枚まで、みな日の力によらぬものなし。
  光明名号の御慈悲で御助けと信ぜられたは、
  我が胸より出でしにあらず、全く光明名号の力なり。

  (香樹院語録)
 

 この法語には「仏を思う心は我を思う仏の心の届かせられたる也 」と題がついている。仏さまに見つけていただいた。それ以来ずっと仏さまの視線の先にわたしがいる。仏のお心とともに寝起きする日暮しです。それがわたしの信仰で、どう生きてきたかなど大したことではない。この仏のお心が誰かに伝わればよいと思う。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-30 06:34 | 往生の生活 | Comments(0)

それが仕おおせたのじゃ

  二九四、安政四年八月十日、
  了信、師の御病気御伺いのため参上して
  御枕許に手をつきければ、師曰く。
  どうじゃ、どうした。

  信曰く。私はこれまで持ちならべて居りました信心も安心も、
  今は何処えかいって仕舞いまして、ただもう御喚び声一つが、
  杖とも力とも憑みきって居るばかりで御座ります。

  仰せに。それが仕おおせたのじゃ。

  曰く。難有う御座ります。
  年久しく御化導を蒙りまして、
  何とも御礼の申し上げようも御座りませぬに、
  今日までは唯口先ばかりで申し上げて、
  御胸をいためましたは、仏智回向の御なしわざと云うことが、
  知られませぬからで御座りました。

  師の仰せに。もう仏智回向がすめたか。
  それがすめぬ故久遠劫より迷うているのじゃ。
  それでもうよいと云うて、捨てておくのではない。
  聞いては喜び聞いては喜びして居るのじゃ程に。

  (香樹院語録) 
 

 この法語のタイトルは「信心も安心もなし、ただ御助け一つ也 」です。香樹院師は「それが仕おおせたのじゃ」と了信を認めている。ありがたそうなものはもうなにもなく「御喚び声一つ」だけが残っている。信心がすっかり出来上がったというのでしょう。最後の教えは「聞いては喜び聞いては喜びして居るのじゃ程に」と。聞いても聞いても心が空(から)だからはじめて聞く心地して聞くたびに喜ぶ。子どものように喜んで、あとになにもない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-29 06:27 | 往生の生活 | Comments(0)

今宵死ねば今宵が極楽

  三〇、左太沖の詩に、「何必糸兼竹、山水有清音」
  (何ぞ必ずしも糸竹を兼ねん。山水に清音あり)と作りしは、
  世間の人は、糸竹音曲ばかりを楽のように思うが、
  山の奥に世を遁れた身は、世間の楽の音はなけれども松吹く風の音、
  谷の流れの音など、よくよく思えば世の塵に離れたる所は、
  糸竹に優った妙な楽であると、人の知らぬ楽みを詠んだ詩なり。

  今、念仏行者は世の人から見れば、窮屈のことと見ゆれども、
  この御信心を得た楽みは、後生知らずのものや、疑いの晴れぬものの知らぬ楽みで、
  思えば思えば露の命、明日も知れぬ、遠い極楽と思うたは我が誤り、
  今宵死ねば今宵が極楽と思えば、人の知られぬ楽しみのあるのが、念仏行者じゃ。

  (香樹院語録)

 「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」とはどのようなことか。「世の塵に離れたる所は」と暗示するように、「今宵死ねば今宵が極楽」、いつ、どんな死を死んでもいまが極楽、すなわち、いま、すでに心が(娑婆を離れた)極楽にあるというのです。娑婆を離れた極楽から娑婆を見て暮らす楽しみ、娑婆の景色を観光して歩く通りすがりの旅人の楽しみでしょうか。

 信心の人の心はすでに身体から解脱しているから死はまったく問題ではない。心はすでに浄土にあるのだから、あらためて、死後に浄土に生まれる必要もない。いまさら生まれる処などないから「今宵死ねば今宵が極楽」、すなわち、いまが極楽、これを「信心を得た楽しみ」「人知られぬ楽しみ」というのでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-22 20:41 | 往生の生活 | Comments(0)

涅槃を得るなり

e0361146_22151782.jpg  よく一念喜愛の心を発すれば、
  煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

  (正信偈)

  仏法では涅槃という。
  一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という。
  本当の一人の所に賑やかであるーそういうさとり(心境)が開ければ、
  いくら大勢居っても誰も自分の心境を妨げない。
  どんなに人に取り巻かれても自分の静かな心境を誰も妨げない。
  そういう心境を開いて下さる法を念仏という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という」。こんな教えを聞いたことがあるだろうか。死んだ後のことではない。生きているうちに経験するのが涅槃である。煩悩の身を持って仏になることはできないが、煩悩の身を持ったまま仏のお心の中に生まれることはできる。それを往生という。悟るのではなく、信の一念に如来回向で悟りの境地が開けてくる。信の一念に摂取不捨、仏のお心の中に生まれる。それを「涅槃を得るなり」という。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-17 20:09 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益(続)

e0361146_07284065.jpg  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  かの清浄の善身にえたり
  ひとしく衆生に回向せん

  (高僧和讃)

  金剛の真心を獲得すれば、
  横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。

  (教行信証・信巻)


 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面に入って主体となってくださった。そのことを「功徳は行者の身にみてり」とも「かの清浄の善、身にえたり」ともいいます。この身に得た信心とはどのようなものか。その具体的な内容を親鸞は「十種の益を獲」と教えてくれている。これが「功徳」です。


 「五趣八難の道」とはわれらの現在の姿であり、現在を現在と知らせ、現在に安息して生きる道を開くのが現在を超えて現在を照らす光、すなわち「金剛の真心」です。現在を超越しているので「未来」といい、未来が現在を超えて現在しているのです。真宗は「二種回向」といいますが、「選択本願信ずれば」が往相で、「ひとしく衆生に回向せん」が還相です。仏のお育てで、わたしの手柄はありません。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-12 07:18 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益

  金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。
  一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、
  四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、
  七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、
  十には正定聚に入る益なり。

  (教行信証・信巻)

 ①冥衆護持とは諸仏諸菩薩、天と地のすべての善神にいつも護られる。②至徳具足とは仏にそなわったこの上もなく尊い功徳がこの身にもそなわる。③転悪成善とは煩悩が悟りへと転ぜられる。④諸仏護念とはいつも諸仏に護られる。⑤諸仏称讃とは諸仏にほめたたえられる。⑥心光照護とはいつも智慧の光に照らされる。⑦心多歓喜とは心に喜びが多い。⑧知恩報徳とは如来のご恩を知りご恩に報いる。⑨常行大悲とは如来回向の智慧を人に伝える。⑩入正定聚とは仏になる身に定まる。

 真心とは真(まこと)の心。仏のお心のことです。仏のお心が凡夫の内面に入って主体となってくださる。それで仏のお徳が凡夫に具わる。それが「至徳具足」です。大きな心の中に自分があるのでいつも護られている感じがします。それが「冥衆護持」です。信心は智慧光ですから「心光常護」、いつも仏の方から自分が見えている。見えていることが救われるということです。

 中でも「転悪成善の益」がとくに大切です。煩悩が湧いても取り憑かずにいられるので煩悩がすぐ消えていきます。過去の業が無意識の底から黒く沸き上がってきて智慧の光に晒されて業が浄化されていく。この繰り返しが浄土の生活です。業が浄化されていくと心が軽く明るくなっていくので「心多歓喜」、仏のお心は利他の心ですから「常行大悲」の働きをします。仏へとお育ていただいているのだとわかります。それで最後にまとめとして「正定聚に入る益なり」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-11 06:12 | 往生の生活 | Comments(0)

浄土は心の世界である

  弥陀智願の広海に
  凡夫善悪の心水も
  帰入しぬればすなわちに
  大悲心とぞ転ずなる

  ※「転ずる」の左訓
  悪の心、善となるを転ずるなりというなり。

  (正像末和讃)

  如来の回向南無阿弥陀仏によって自己を照らす眼を開かせて頂くのである。
  そうすると、そこに浄土が心の前に開ける。浄土は心の世界である。
  我等の心の無明を照らして下さるものである。
  心が自由に眼を開いて来るなら、煩悩が起っても煩悩の奴隷とならず、
  煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。
  それが即ち浄土の生活というものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 境遇も世界も運命も信の前と後でなにも変わらない。それを受け止める心の方が変わる。それを量深師は「自己を照らす眼を開かせて頂く」と言っている。凡夫の眼が仏の眼になる。この意識の転換を「転ずる」といい、この「転ずる」を経験することが仏教のすべてと言っていい。「煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。それが即ち浄土の生活というものである」。現実を超越した心の生活を「浄土」という。 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-07 00:36 | 往生の生活 | Comments(0)

真実報土

e0361146_22242000.jpg  信心によって、信の一念のときに願生心が成就する。
  自分の願いも成就し、如来の本願も成就する。
  だから、お助けは現在に成就する。
  だから私どもはこの世に満足して、何も暗い疑いの思いなく、
  自分の生活の現在に満足するというのが真実報土でしょう。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 信の一念に求める心が消える。求めるものがなくなった心の状態を「満足」という。満足する心に「なぜ」はない。求めないからすべてがある。いまの境遇に満足する。満足する心は明るい。満足する心が開く明るく平和な心境、心の世界を「真実報土」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-06 07:11 | 往生の生活 | Comments(0)

信心のご利益

  無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

  (高僧和讃)

  たとい我、仏を得んに、
  十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、
  我が光明を蒙りてその身に触れん者、
  身心柔軟にして、人天に超過せん。
  もし爾らずんば、正覚を取らじ。

  (三十三願・触光柔軟の願)

  身体があるから煩悩がある。
  煩悩具足であるが、その煩悩が起って来る傍から解ける。
  一方に起し一方に解ける。それが信心の御利益というもの。
  智慧の眼が開いて来ると頑なな煩悩を起こす身体の方も自ずと柔軟になる。
  心が柔軟になれば身体も柔軟になる。身体が柔軟になれば身体が健康になる。
  正定聚で何時死んでも極楽往生間違いない、
  そう思っているそんなつまらぬ正定聚は何でもないものだ。
  煩悩が解ける、そういう所に正定聚がある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 信の一念に智慧をたまわる。智慧とは心が見える。見えるとは離れることだから、離れて心の影響を受けない。心を相手にしないでいられる。相手にしないから煩悩は静かになって、生じてもすぐに消える。このことを量深師は「起って来る傍から解ける」と言っている。解けるとは消えてなくなる。煩悩に実体はないから相手にしないと消えてなくなる。和讃には「かならず煩悩のこおりとけ、すなわち菩提のみずとなる」と、智慧の働きが讃えられている。このようにして煩悩が浄化され、心が明るくなっていく。仏へと育てられていく信心のご利益です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-05 06:00 | 往生の生活 | Comments(0)

念々称名常懺悔

  誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、
  愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
  定聚の数に入ることを喜ばず、
  真証の証に近づくことを快しまざることを、
  恥ずべし、傷むべし、と。

  (教行信証・信巻 )

  念々に称名してつねに懺悔す
  人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ
  凡聖あひ知り境あひ照らす
  すなはちこれ衆生増上縁なり

  (善導・般舟讃)


 善導大師の「般舟讃」に「念々称名常懺悔」という言葉がありますが、親鸞のこの述懐が「懺悔」です。真宗では「ざんげ」ではなく「さんげ」と読みます。懺悔(ざんげ)とは「キリスト教で、罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること」と広辞苑にありますが、一般的に懺悔とは、道徳規範に照らして自分の行為を反省することなのでしょう。しかし、念仏ではそうではなくて、"仏の眼"に映っている自分の心が全体として"見えている"ことを「懺悔」というのです。

 つまり、仏の側から見えるわたしの姿を見せていただくということです。わたしはわたしを見ることはできないが、不思議なことに、仏の眼をいただくことによって、仏から見えるわたしを見せていただくことができる。これを「智慧」といいます。ですから、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」とは、「愚禿鸞」の現実の、ありのままの姿が親鸞には見えたということです。よって、「悲しきかな」とは仏のお心であり、「恥ずべし、傷むべし」とは親鸞の心です。

 このように、仏のお心と親鸞の心はすでに一つになっていて、親鸞が自ら(機)を見るときは仏(法)の側にいて、仏(法)を仰ぐときは親鸞(機)の側にいるのです。これ「機法一体」といいます。仏のお心が親鸞の内面になった。主体が入れ替わった。だから、いつでも内面の仏と対話することができる。「人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ」。これを「憶念」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-01 06:40 | 往生の生活 | Comments(0)