涅槃を得るなり

e0361146_22151782.jpg  よく一念喜愛の心を発すれば、
  煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

  (正信偈)

  仏法では涅槃という。
  一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という。
  本当の一人の所に賑やかであるーそういうさとり(心境)が開ければ、
  いくら大勢居っても誰も自分の心境を妨げない。
  どんなに人に取り巻かれても自分の静かな心境を誰も妨げない。
  そういう心境を開いて下さる法を念仏という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という」。こんな教えを聞いたことがあるだろうか。死んだ後のことではない。生きているうちに経験するのが涅槃である。煩悩の身を持って仏になることはできないが、煩悩の身を持ったまま仏のお心の中に生まれることはできる。それを往生という。悟るのではなく、信の一念に如来回向で悟りの境地が開けてくる。信の一念に摂取不捨、仏のお心の中に生まれる。それを「涅槃を得るなり」という。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-17 20:09 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益(続)

e0361146_07284065.jpg  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  かの清浄の善身にえたり
  ひとしく衆生に回向せん

  (高僧和讃)

  金剛の真心を獲得すれば、
  横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。

  (教行信証・信巻)


 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面に入って主体となってくださった。そのことを「功徳は行者の身にみてり」とも「かの清浄の善、身にえたり」ともいいます。この身に得た信心とはどのようなものか。その具体的な内容を親鸞は「十種の益を獲」と教えてくれている。これが「功徳」です。


 「五趣八難の道」とはわれらの現在の姿であり、現在を現在と知らせ、現在に安息して生きる道を開くのが現在を超えて現在を照らす光、すなわち「金剛の真心」です。現在を超越しているので「未来」といい、未来が現在を超えて現在しているのです。真宗は「二種回向」といいますが、「選択本願信ずれば」が往相で、「ひとしく衆生に回向せん」が還相です。仏のお育てで、わたしの手柄はありません。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-12 07:18 | 往生の生活 | Comments(0)

現生十種の益

  金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。
  一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、
  四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、
  七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、
  十には正定聚に入る益なり。

  (教行信証・信巻)

 ①冥衆護持とは諸仏諸菩薩、天と地のすべての善神にいつも護られる。②至徳具足とは仏にそなわったこの上もなく尊い功徳がこの身にもそなわる。③転悪成善とは煩悩が悟りへと転ぜられる。④諸仏護念とはいつも諸仏に護られる。⑤諸仏称讃とは諸仏にほめたたえられる。⑥心光照護とはいつも智慧の光に照らされる。⑦心多歓喜とは心に喜びが多い。⑧知恩報徳とは如来のご恩を知りご恩に報いる。⑨常行大悲とは如来回向の智慧を人に伝える。⑩入正定聚とは仏になる身に定まる。

 真心とは真(まこと)の心。仏のお心のことです。仏のお心が凡夫の内面に入って主体となってくださる。それで仏のお徳が凡夫に具わる。それが「至徳具足」です。大きな心の中に自分があるのでいつも護られている感じがします。それが「冥衆護持」です。信心は智慧光ですから「心光常護」、いつも仏の方から自分が見えている。見えていることが救われるということです。

 中でも「転悪成善の益」がとくに大切です。煩悩が湧いても取り憑かずにいられるので煩悩がすぐ消えていきます。過去の業が無意識の底から黒く沸き上がってきて智慧の光に晒されて業が浄化されていく。この繰り返しが浄土の生活です。業が浄化されていくと心が軽く明るくなっていくので「心多歓喜」、仏のお心は利他の心ですから「常行大悲」の働きをします。仏へとお育ていただいているのだとわかります。それで最後にまとめとして「正定聚に入る益なり」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-11 06:12 | 往生の生活 | Comments(0)

浄土は心の世界である

  弥陀智願の広海に
  凡夫善悪の心水も
  帰入しぬればすなわちに
  大悲心とぞ転ずなる

  ※「転ずる」の左訓
  悪の心、善となるを転ずるなりというなり。

  (正像末和讃)

  如来の回向南無阿弥陀仏によって自己を照らす眼を開かせて頂くのである。
  そうすると、そこに浄土が心の前に開ける。浄土は心の世界である。
  我等の心の無明を照らして下さるものである。
  心が自由に眼を開いて来るなら、煩悩が起っても煩悩の奴隷とならず、
  煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。
  それが即ち浄土の生活というものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 境遇も世界も運命も信の前と後でなにも変わらない。それを受け止める心の方が変わる。それを量深師は「自己を照らす眼を開かせて頂く」と言っている。凡夫の眼が仏の眼になる。この意識の転換を「転ずる」といい、この「転ずる」を経験することが仏教のすべてと言っていい。「煩悩の悪を転じて如来の徳を行ずることが出来る。それが即ち浄土の生活というものである」。現実を超越した心の生活を「浄土」という。 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-07 00:36 | 往生の生活 | Comments(0)

真実報土

e0361146_22242000.jpg  信心によって、信の一念のときに願生心が成就する。
  自分の願いも成就し、如来の本願も成就する。
  だから、お助けは現在に成就する。
  だから私どもはこの世に満足して、何も暗い疑いの思いなく、
  自分の生活の現在に満足するというのが真実報土でしょう。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 信の一念に求める心が消える。求めるものがなくなった心の状態を「満足」という。満足する心に「なぜ」はない。求めないからすべてがある。いまの境遇に満足する。満足する心は明るい。満足する心が開く明るく平和な心境、心の世界を「真実報土」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-06 07:11 | 往生の生活 | Comments(0)

信心のご利益

  無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

  (高僧和讃)

  たとい我、仏を得んに、
  十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、
  我が光明を蒙りてその身に触れん者、
  身心柔軟にして、人天に超過せん。
  もし爾らずんば、正覚を取らじ。

  (三十三願・触光柔軟の願)

  身体があるから煩悩がある。
  煩悩具足であるが、その煩悩が起って来る傍から解ける。
  一方に起し一方に解ける。それが信心の御利益というもの。
  智慧の眼が開いて来ると頑なな煩悩を起こす身体の方も自ずと柔軟になる。
  心が柔軟になれば身体も柔軟になる。身体が柔軟になれば身体が健康になる。
  正定聚で何時死んでも極楽往生間違いない、
  そう思っているそんなつまらぬ正定聚は何でもないものだ。
  煩悩が解ける、そういう所に正定聚がある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 信の一念に智慧をたまわる。智慧とは心が見える。見えるとは離れることだから、離れて心の影響を受けない。心を相手にしないでいられる。相手にしないから煩悩は静かになって、生じてもすぐに消える。このことを量深師は「起って来る傍から解ける」と言っている。解けるとは消えてなくなる。煩悩に実体はないから相手にしないと消えてなくなる。和讃には「かならず煩悩のこおりとけ、すなわち菩提のみずとなる」と、智慧の働きが讃えられている。このようにして煩悩が浄化され、心が明るくなっていく。仏へと育てられていく信心のご利益です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-05 06:00 | 往生の生活 | Comments(0)

念々称名常懺悔

  誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、
  愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
  定聚の数に入ることを喜ばず、
  真証の証に近づくことを快しまざることを、
  恥ずべし、傷むべし、と。

  (教行信証・信巻 )

  念々に称名してつねに懺悔す
  人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ
  凡聖あひ知り境あひ照らす
  すなはちこれ衆生増上縁なり

  (善導・般舟讃)


 善導大師の「般舟讃」に「念々称名常懺悔」という言葉がありますが、親鸞のこの述懐が「懺悔」です。真宗では「ざんげ」ではなく「さんげ」と読みます。懺悔(ざんげ)とは「キリスト教で、罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること」と広辞苑にありますが、一般的に懺悔とは、道徳規範に照らして自分の行為を反省することなのでしょう。しかし、念仏ではそうではなくて、"仏の眼"に映っている自分の心が全体として"見えている"ことを「懺悔」というのです。

 つまり、仏の側から見えるわたしの姿を見せていただくということです。わたしはわたしを見ることはできないが、不思議なことに、仏の眼をいただくことによって、仏から見えるわたしを見せていただくことができる。これを「智慧」といいます。ですから、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」とは、「愚禿鸞」の現実の、ありのままの姿が親鸞には見えたということです。よって、「悲しきかな」とは仏のお心であり、「恥ずべし、傷むべし」とは親鸞の心です。

 このように、仏のお心と親鸞の心はすでに一つになっていて、親鸞が自ら(機)を見るときは仏(法)の側にいて、仏(法)を仰ぐときは親鸞(機)の側にいるのです。これ「機法一体」といいます。仏のお心が親鸞の内面になった。主体が入れ替わった。だから、いつでも内面の仏と対話することができる。「人よく仏を念ずれば仏また憶したまふ」。これを「憶念」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-01 06:40 | 往生の生活 | Comments(0)

無生法忍

  純粋精神は不生不滅、形のないものである。
  形があるから生あり、滅あるが、形がなければ不生不滅である。
  心が形をとって来たのを物と言う。心の外に物という固定したものがあるのでない。
  心が分別を起こす時になると形がある。そうすると生あり滅あり。
  心の本性に生滅はない。心が身体の奴隷になれば、
  心も生あり滅あり、心に生死ありということになる。

  南無阿弥陀仏と言うと、身体がここにあっても心は身体に縛られない。
  広い阿弥陀如来の本願の世界、その浄土に心が息をするようになった。
  心が落ち着いて、どんな事があっても、どの様な逆境があっても、心が落着き得るようになった。
  それは、心が生死を超えた世界に生きておる。そういう心の生活を無生法忍という。

  身体が煩悩具足の身体であるから凡夫であるに違いない。
  そういう凡夫でも無生法忍という信心の智慧に眼を開くことが出来る。
  それが仏法聴聞の徳である。それがなくては現生不退と言うても――。
  無生法忍を開くことが現生不退というものである。

  (津曲敦三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 
 自然法爾章に「無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり」とあります。形がないものはわれらの意識野には入ってこない。意識野に入らないから「不可称不可説不可思議」という。意識は氷山の一角、意識下には膨大な無意識の拡がりがあり、それは全宇宙につながっている。仏のお心はさらにそれすらをも超えている。永遠に死なない命の働き、形のない、目にみえない救いの働きをわれらは「歓喜」という形で受け取る。

 正信偈に「慶喜一念相応後、与韋提等獲三忍」(慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲)」とあるように、信の一念に「喜悟信の三忍」をいただく。すなわち、喜びの心、悟りの心、信ずる心を信心にして、われらは仏の悟りを仏からいただくのです。心は身体から解脱して貪瞋煩悩の毒が回らなくなった。それゆえ心は明るく柔軟になる。心に喜びが多いのは信心のお徳です。すでに不生不滅の仏心を自覚しているので、いつ身体が死んでも成仏する。このような悟りを「現生不退」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-08 16:23 | 往生の生活 | Comments(0)

e0361146_18441621.jpg  自己とは、ほかでもない、絶対無限の妙用に乗託して、
  任運に法爾に、この現在の境遇に落在することである。
  ひたすら絶対無限に乗託するのだ。
  まさにそのゆえに死生のこともなんら憂うるにたりない。
  死生ですら憂うるにたりないのだから、
  ましてやこれ以下の事柄などは憂うるにたりない。
  追放されてもかまわないし、牢獄にも甘んじることができる。
  誹謗や排斥などあまたある陵辱などは、なんら意に介すべきことではない。
  われらはむしろ絶対無限がわれらに与えてくれるものをひたすら楽しみたいものだ。

  (今村仁司訳『清沢満之語録』275ページ)

  「絶対他力の大道」を読むと、
  「我等は寧ろ、只管絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな」、楽天主義である。
  精神主義者即ち絶対他力の信念を持つ者は初めから運命に随順している。
  絶対他力に乗託しそこに自分の安心の地を見出だすと何の不足も不平もない、
  だから与えられた環境に甘んじ又安んずることが出来る。
  相対有限の所にそこに安心する場所がある、

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 竹内先生は宗門は満之をもっと大切にすべきだと仰っていましたが、満之の文章は近代哲学の思惟に鍛えられ、その思考は論理的で、しかも明晰です。おのれの権利と責任を主張し、正統性を申し立てる近代的自我との血の出るような戦いのすえ、ついに仏のお心に抱き取られ、戦いの傷を癒すような平和な心境の中にいることが伝わってきます。自力の完全燃焼なくしては他力は成就しない、凄絶な自我意識との闘いがあったことを感じます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-07 18:34 | 往生の生活 | Comments(0)

摂取不捨の畳の上

  二〇〇、畳の上では手ばなしになっていても、
  ねても起きても気づかいはないが、
  高い木の上え登って手をはなして見たがよい。
  落ちて死なねばならぬ。
  同じ手ばなしなれども居所がちがうからじゃ。
  摂取不捨の畳の上にすまいして居るからだは、
  行往坐臥が如来の加護ゆえ、あぶなげがない。

  (香樹院語録)   


 「摂取不捨」とはなにか。仏のお心の中にいて、仏の方からわたしが見えていることを「摂取不捨」という。見えているから迷わない。迷いようがない。なにが見えているかというと「わたしの心」が見えている。これしか仕様のないわたしの心、ありのままの心が見えている。ありのままを「事実」という。事実を見せて救うから「智慧」という。自分の心に執着があると都合の悪い事実は受け入れない。受け入れずに都合のいい「解釈」をする。事実をどのように解釈するのも勝手であるが、大切なことは、解釈は事実ではないということだ。

 自分の心を仏の眼で見せていただく。仏の方から事実を見るので「如実知見」という。自分に期待を持っている人は自分に都合の悪い事実は受け入れずに解釈して事実を曲げる。事実を受け入れたくないので、どう都合のいいように解釈しようかと悩む。我執があるから誤魔化す。信心の人は事実をそのまま受け入れて不満がない。自分に期待がないからだ。この話は譬えである。「高い木の上」とは驕慢である。我執がある。我執がなければ「摂取不捨の畳の上」にいる。これ以上落ちようがない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-01-23 06:39 | 往生の生活 | Comments(0)