カテゴリ:人生問題と生死( 4 )

自分の境遇を疑う

e0361146_10235205.jpg  真宗念仏ききえつつ
  一念無疑なるをこそ 
  希有最勝人とほめ 
  正念をうとはさだめたれ

  (高僧和讃)

 「なぜ、わたしだけがこんな苦しみを受けなくてはならないのか」と自分の境遇を疑う。すっかり可哀相な被害者になっているが、疑いの心の根底には誰もが縛られている「執着」がある。自分の心への執着が苦しみをつくる。そのことを知ることが仏法の目的であり、それを知った人は「一念無疑」にて、「希有最勝人」と讃えられる。自分の心を離れることを「正念をう」というが、執着が見えると、問題はそのままに「疑い」(問い)が消える。これが信心の利益である。現実を超越したから、現実をありのままに受け入れられるのである。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-02-14 10:08 | 人生問題と生死 | Comments(0)

世間や他人の評価

  しかれば本願を信ぜんには、
  他の善も要にあらず、
  念仏にまさるべき善なきがゆえに。
  悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに。


  (歎異抄・第一章)


 わたしたちは生まれた時から親や他人の評価にさらされて生きてきた。だから、大人になった今も、周りの評価にビクビクしながら生きている。世間や他人の評価から自由になれないのです。一方、「しかれば本願を信ぜんには」、正しい信仰を持った人は世間の評価を気にしない。「悪をもおそるべからず」の「悪」とは、世間から受ける「悪い評価」のことです。

 軽蔑、無視、非難、ときに糾弾、懲罰。犯罪者として裁かれることもあるかも知れない。しかし、親鸞は、世間から悪い評価を受けても気にならないと言っている。なぜなら、「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」。世間の評価より仏のお慈悲が嬉しいのです。世間の「よい評価」で、誰もが欲しがる金や地位や名誉もいらない。「念仏にまさるべき善なきがゆえに」。

 信仰とはこういうことなのでしょう。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(後序)と親鸞は言いましたが、世間と人の心にまったく価値を置いていないことがわかります。仏のお心を知ってしまったからです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-24 08:24 | 人生問題と生死 | Comments(2)

信仰の根底にあるもの

  無碍光如来の名号と
  かの光明智相とは
  無明長夜の闇を破し
  衆生の志願をみてたまう

  (高僧和讃)


 わたしたちの心の根っこ、命の根っこにある「衆生の志願」とは、突き詰めれば「死にたくない」ということなのでしょう。金や地位や名誉、家族が欲しいのは命に執着しているのです。命はみな、もっと生きていたい。死にたくないと願っている。わたしたちは、普段は死を考えないようにしているが、心の根っこにはいつも死があり、いざ、死が目前の現実ともなれば誰もが命にしがみつく。死を恐れる。死にたくない。もっと生きたい。

 よって、「衆生の志願」が満たされるというのは「不死」(永遠の命)を得るということです。どのように「不死」を得るかといえば、仏(無我)を経験して「不死」を得る。仏への疑いが晴れると、生まれたり死んだりする「わたし」がないと知る。これを「不死」(永遠の命)を得るというのです。「わたし」がなければ、すべてが仏。無我を経験すればみな仏(永遠の命)となる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-21 21:39 | 人生問題と生死 | Comments(0)

誰もが必ず挫折する

  罪業もとよりかたちなし
  妄想顛倒のなせるなり
  心性もとよりきよけれど
  この世はまことのひとぞなき

  (正像末和讃)


 誰もが必ず「挫折」する。挑戦しなければ失敗もしないが、自分を誇れるものが欲しいばかりに、だれもが気に入った現実を求めてフラフラと亡霊のように漂っている。気に入った現実を求めているうちに頭の中の出来事が世界のすべてになってしまう。「意識」という心の病だ。小さな頭の中に猛烈な嵐が起きている。意識の猛毒が体を蝕む。

 現実を頭の中の理想に合わせようとする努力がそもそも間違っている。大小が逆転しているから必ず挫折、転倒する。仮に思い通りになったと錯覚しても、最後に決定的な挫折が待っている。あなたにとっての都合のよい現実ばかりか、あなたがきれいさっぱり消えてなくなる。生きることに夢中になっているうちは気づかなかったことを死の床で気づかされるのだ。

 さて、上に掲げた和讃ですが、「頭の中のことは現実ではない」ということを教えている。仏教では頭の中の出来事を「妄想」という。妄想は現実ではない。妄想を現実であるかのように思い込むから「妄想顛倒」という。頭の中の出来事が「妄想」とわかれば、それが「悟り」ということです。簡単なようだが難しい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2016-11-16 14:36 | 人生問題と生死 | Comments(0)