2017年 08月 16日 ( 1 )

  六四、江州草津驛、合羽屋某に対せられての仰せに。
  或ときは往生一定と思い、或ときは往生不定と思う。
  この二つをすてて、ただ弥陀をたのむことじゃ。

  (香樹院語録) 
 

 疑うというのが知性の本質だから仏を疑うのは当然だ。見えない心を経験もせず信ずると言ったら、それは嘘だ。仏がどういうお方かがわかったら信じるというのでしょうが、それは無理だ。知性では届かないから仏智不思議という。こちらからは決して届かないがあちらから届けてくださる。自分が、自分がで、目一杯になった心が空になれば空になった心に仏の心が入ってくださる。


 「往生一定」「往生不定」と、結果を考えているうちはまだ余裕がある。自分の心がもう信用ならない。嘘ばかり。計算ばかり。もう、すっかり愛想が尽きた。世間を騙して生き抜くことは難しくない。しかし、こんな心じゃ生きてる意味がない。このままでは死んでいくことすらできない。仏さまがなにかもわからないが、もうお念仏するしない。こうなったのが「たのむ」ということでしょう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-16 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)