2017年 07月 25日 ( 1 )

願力自然

  ①信心さだまりなば、
  往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、
  わがはからいなるべからず。

  ②わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、
  自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。

  ③すべてよろずのことにつけて、
  往生には、かしこきおもいを具せずして、
  ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、
  つねはおもいいだしまいらすべし。
  しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。

  ④わがはからわざるを、自然ともうすなり。

  (歎異抄・第16章)

 最初に「①信心さだまりなば」とある。「往生」とは仏に成る。無為自然の悟りへと心を開くのが智慧の働きです。智慧の働きを「願力自然」という。願力自然のことを「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず」と教えてくださった。「わがはからい」とは“我”というちっぽけな有限差別の世界をつくる。差別は苦しみに向かう。安楽に向かう念仏とはまったく方向が反対だ。

 次に「②わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし」とある。願力を仰ぐには願力を一度は経験しなくてはならない。願力を最初に経験するを「信心さだまりなば」という。「柔和忍辱のこころ」とは仏心のことです。煩悩を仏心へと転ずる働きが「自然のことわり」だと教えてくださった。「転悪成善」ともいう。悪の煩悩を善の仏心に転ずる働きこそが智慧(念仏)の働きです。

 最後に「③すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして」とは、人の頭は「かしこきおもい」で出来ている。賢くないのに賢いと思うから愚かという。それを「具せず」とは頭に湧いては消えるだけの思いを相手にしない。それが「智慧の念仏」であると教えてくれています。実に親切です。

 「④わがはからわざるを、自然ともうすなり」。これはまとめの言葉です。「わがはからわざる」とは無我のこと、「自然」とは全体として働く働き、そこには個がない。個のない無我へと心を開いていく。それが「念仏」であると教えて下さった。親鸞の「自然法爾章」に通じる唯円のすばらしい文章です。自らの経験に基づいていることは言うまでもない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-25 12:15 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)