2017年 07月 23日 ( 1 )

回心ということ

  一向専修のひとにおいては、
  回心ということ、ただひとたびあるべし。
  その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、
  弥陀の智慧をたまわりて、
  日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、
  もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、
  回心とはもうしそうらえ。

  (歎異抄・第16章)

 智慧は心が見える。心が見えるようにして救う。知らなかった智慧(仏)を始めて知るから「弥陀の智慧をたまわりて」という。智慧を与えて救う、これが仏のお慈悲。心は心に執着しているからいつだって心の求めることをしたい。心に夢中になっている。いつも執着の火だるまになっているが、火だるまになっていることがわからない。

 心から出てきた「思い」の通りにしなくちゃと、いつも心に支配されて自由がない。こんな心に智慧が働く。火だるまになっている姿を見せる。火に水をかける。心ははっとして心を見る。これが「弥陀の智慧をたまわりて」という体験だ。智慧を一度いただけば、火だるまになっては、はっと気づいて心を離れる。これが出来るようになる。この繰り返しが一生涯続く。これが智慧、これが仏道になる。

 生きることが煩悩、煩悩あるかぎり智慧の救いは働き続ける。煩悩は無量、無辺だから、煩悩の火が消えるまで智慧の救いの活動は続く。これがこの胸の中で起きていることだ。そして、この身が滅するとき、この身に起きていた智慧の救いの事業、衆生済度も終る。この身を救い終わって成仏する。この身に現れた仏が成仏する。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-23 19:59 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)