2017年 07月 22日 ( 1 )

  二九五、安政四年十二月三日、
  了信、御枕許にて申し上ぐるよう。

  先年長浜にての御聞かせ、
  あら恐ろしや恐ろしやあら嬉しや嬉しやの思いの起らぬは、
  無宿善じゃとの御意で御座りましたが、
  今私もようよう其処えとどかせて頂きました。
  これは私が罪造りながら知らずにいることを、
  御知らせ下さるることで御座りますか。

  仰せに。そうじゃ。
  凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、
  三塗の業より外に仕事はせず、
  毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ。

  申し上げて曰く。有難う御座ります。
  善知識様の御化導によりまして、
  火の坑の上の綱渡りは、
  私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや、
  かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや、
  国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする。

  (香樹院語録)

 この法語は信心というものがどのようなものか、実にわかりやすい。了信という人、臨終の床にある師に対して、「これは私が罪造りながら知らずにいることを、御知らせ下さるることで御座りますか」と領解を述べれば、香樹院師、言下に「そうじゃ」と認可する。「凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、三塗の業より外に仕事はせず、毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ」。人はみな自分が誰かがわからずに迷うのであると、まことに単刀直入、仏法の核心に斬り込む。

 自分が誰かを知らないから、欲望や煩悩に簡単に騙される。自分の心に騙されていることにも気づかず一生を終る。これは悲しくも、多くの命の、まぎれもない現実である。よくよく心して聞くがよい。さて、信心は必ず二種深信である。「私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや」が機の深信、「かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや」は法の深信、まことにわかりやすいご化導である。信心の人は稀であるから「国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする」と了信は喜んだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-22 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(3)