2017年 07月 19日 ( 1 )

歎異抄・第九章の読み方

  念仏もうしそうらえども、
  踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん。

  (歎異抄・第9章)


 著者・唯円には「踊躍歓喜」の信体験があった。だから「踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と訴えることができる。無明に小さな穴が開いて心に智慧の光が差した。最初は法悦の中にある。それから数年、暫くはわかった気になっていられたが、やがて「踊躍歓喜のこころ」がわからなくなる。智慧に慣れ、智慧を私物化するからである。

 親鸞もまた「親鸞もこの不審ありつるに」と言っているから、親鸞も一度はこれを経験した。信心が深まっていくプロセスであり、ここを越えなければならない。どう越えるか。越えさせるのもまた仏のお育てであると気づかされるということです。「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり」。親鸞は弟子の唯円にこう答えた。

 救われない宿業の身との自覚をいただいて、わたしたちは仏のお心の中に生まれさせていただけた。それをも忘れて、信を得たことでなにか偉い者にでもなったように思ってしまっているんですね。わたしは今もそうですよと、このように親鸞は答えた。この経験があるからこそ、さらに深く本願力の手強さに身も心も任せていかれるようになる。このようなことが何度も何度も繰り返されつつ自然法爾の境地に深まっていく。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-19 06:29 | 歎異抄の読み方 | Comments(2)