2017年 07月 09日 ( 1 )

  三五、五人七人の子を持ったる親が、
  その子がみな首の落ちるような悪事をしたを、
  並べて眺めている親の心はどう云うものであろう。
  ただ涙こぼして、見るより外はあるまい。
  在家も出家も、男子も女人も、
  彼尊の御膝元にならべて、天眼の御まなこより、
  御眺めあらせらるるのに、
  首一つ斬らるる位のことではない。

  無量劫の永の間、又再び人間に生れ出させて、
  爰までに育てるは、並大抵の御骨折ではない。
  それをば是れも無間の罪人じゃ、あれも無間の罪人じゃと、
  御眺めあらせらるる御慈悲の思召は、どのようであろう。
  それを思えば、我身は勿論のこと、我妻も子も、
  同じ御前に並ぶ彼尊の子じゃと思わば、
  たとい親は子にあやまり、夫は妻にあやまりてなりとも、
  この御法を聞かせ、御法義相続せねばならぬ。

  (香樹院語録)

 無量劫の過去よりの悪業の蓄積としてのこの身をいただいて、ここに、わたしの現在がある。わたしの親も、わたしの妻も、わたしの子らも、みな「無間の罪人」としての過去がある。この世で一時の縁を結んだがいずれ解ける縁である。親鸞は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」(歎異抄・第5章)と言ったが、一切の有情は仏に救われるのであり、わが子であろうと、わが妻、わが親であろうと、今生ですれ違ったが、わたしが救うのではない。いずれも仏の救いを待つ身である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-09 06:42 | 香樹院語録を読む | Comments(0)