2017年 07月 07日 ( 1 )

  一六九、江州湖北の某寺にて御法話の節、
  一人の老媼、一座をさし出でて高慢顔に自得のままを述ぶ。
  師きびしく呵して曰はく、顔見るも厭やじゃ、 と。
  老媼恐れ入りながらも渋き顔して退出せんとす。
  師再び呼び返して仰せらるるよう、
  汝よく聞け。己ればかりが嫌うでないぞ。
  十方の諸仏も菩薩も、皆な忌み嫌い給うが驕慢心じゃ。
  其のあらゆる仏菩薩に忌み捨てられたるものを殊に憐れと思召して、
  我慢の和ぐように照らして下さるのが、弥陀の光明じゃ程に、と。
  老媼、感涙して改悔せりと。

  (香樹院語録)  

 この法語には「光觸れんもの身心柔軟ならん」と題がついている。光とは智慧、智慧は自分の心が見える。浅ましくも醜い心、よくぞ、恥ずかしくもなくこんな心を隠して生きてきたものぞと驚き入る。自分を知らないから偉そうにしていられたが、ありのままの自分を見せていただいたら頭の上げようがない。驕慢の角を折って素直な心を与えようというのが「触光柔軟の願」です。


すなわち、智慧が生じて「思い」が見えれば、思いに縛られて「思い通り」にしたい貪欲が和らぐ。貪欲が和らげば「思い通り」にならない瞋恚(怒り)が和らぐ。怒りが心を固くするから怒りの少ない心は明るく軽く柔らかになる。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-07-07 06:22 | 香樹院語録を読む | Comments(0)