2017年 06月 30日 ( 1 )

挟まれている身

  四〇、「無始流転の苦をすてて、無上涅槃を期すること」。
  この『和讃』初の句は御助けありたることの有難さ、
  第二句は御助けあろうずることの難有さ。
  第一句は過去に向うての喜び、
  第二句は未来当果に向うての喜びなり。
  よくよく思えば、過去に向うての喜びと、
  未来に向うての喜びとは、
  はさまれて居る身と聴聞すれば、
  いよいよ難有き事也。

  今この二句の意、
  第一句にかたよれば邪見に流るる恐れあり。
  第二句にかたよれば機なげきに陥る過あり。
  よくよく考うべき也。

  (香樹院語録)

 竹内先生は会座でよく使っておられたが、「機なげき」という言葉は他ではまったく聞かない。自分の罪の深さを嘆くのであるが一向に懺悔にならないのは信心の智慧がないからです。智慧とは如来回向ですから仏の方から自分が見える。宿業の身、救われない姿を見せていただく。それは紛れもないわが身の事実、鏡に映ったありのままの現実だから否定しようがない。

 ありのままの自分を見せていただいてこそ救われる。なぜか、自分は誰かがわかったから。では、自分は誰か。煩悩具足の凡夫という古着をまとった未来仏である。無量劫よりの悪業の蓄積でできた身をもって生まれてきたのは仏になるためである。それがわかって救われた。過去は罪悪深重の凡夫、未来は仏。この間に挟まれた現在は、身は凡夫、心は仏。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-30 06:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)