2017年 06月 19日 ( 1 )

他力信心他力信心

  二四五、ある時の仰せに。
  他力信心他力信心と聞かせて頂けば誤りはない。
  此方は誤りばかりなれども、
  如来より御與えと思われるならば、
  我れしらず疑いは晴れる。

  またの仰せに。
  皆々は助けたまう御慈悲が、
  他力とまでは聞くけれども、
  信ずる信が他力とは思わぬ。
  それ故、ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、
  心を引かれて難儀をするのじゃ。

  又曰く。
  信心を得ることばかり他力のように思う故、
  己が心をもり立てて、とかくの計いがやまぬ。

  (香樹院語録) 

 仏とは「無我」ですから「わたし」(我)がある限り他力(無我)にはならない。信仰とは「無我」(仏)を経験する、この一点です。「ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、心を引かれて難儀をする」のは「わたし」に執着しているのです。「無我」とは「わたしがない」ことの確認で、「わたし」がないと知るから「仏」になるのです。

 「わたし」がないからあらゆる罪悪が洗い流される。ない「わたし」に執着するから「ただ願いぶり、信じぶり、勤めぶりばかりに、心を引かれて難儀をする」ので、「わたし」を離れて「わたし」を見る信心の智慧をいただけば、業だけがあって、そこに「わたし」なる主体はないと知る。これが「わたし」から救われるということです。「わたし」がなければ、すべてが「他力」(仏)です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-19 06:40 | 香樹院語録を読む | Comments(0)