2017年 06月 11日 ( 1 )

平生聴聞

  六二、後生大事の心は、わが家にありての事。
  寺参りしてから、俄かに大事にはなられぬ也。
  助かるいわれは、参りて聴聞して疑いをはらす事。
  これは、我が分別では晴れぬ也。

  (香樹院語録)

 いま起きている事実を「自分にとって」都合のいい事実と都合の悪い事実に分けることを「分別」という。基準は自分にある。いま起きている事実は宇宙一体の命(仏)であるから「事実」を嫌うことは「仏」を嫌うことだと知らなくてはならない。「なんでこんな目に遭わなくてはならないのか」と運命を呪うのは仏を疑うことだ。だから、どんな事実も「仏の御いのち」と拝むことができたら、それを「疑いが晴れる」という。仏が基準になる。

 疑う心の底には暗く醜い「執着」がとぐろを巻いている。執着が好き嫌いを言う。だから「疑いが晴れる」とは執着が切れることをいう。ちなみに、この法語には「平生聴聞」と題がついている。「寺参り」はサークル活動ではない。「自分基準」(無明)から「仏基準」(智慧)に転換するには命がけで聴聞しなくてはならない。「自分基準」への執着と闘うのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-11 08:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)