2017年 06月 10日 ( 1 )

畏聖人之言

  一九、『論語』に曰く、
  「君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言」と。
  とかく、教の言葉をあなどりて、たかが、こう云う理屈ぞと、
  手前ですます料簡があるゆえ、ものを狎れ狎れしう思うて、
  大切なことを何とも思わず仕損ずる。
  それで当流にも、何のようも苦労もなく、
  助け給わんがためにとて、種々のご苦労をなさるるに、
  その御言葉を何とも思わず、大切にする心がない故に、
  いつも其のこととばかり思うて、
  身に引き受けて、心に味うことが少ない。
  よく聴聞して、信心を決定あらう。

  (香樹院語録)

 仏教に「生きる意味」(理屈)を教えてもらおうと考えている人はいくら聴聞しても「信心」がわからないだろう。始めから求め方が間違っている。事実はどこまでも厳密で、わたしがどう考えるかに関係なく起きている。信心がわかるためには、自分に都合がよかろうが悪かろうが「事実だけが真実だ」と決着しなくてはならない。しかし、信心がわからない人は「事実を事実として受け入れて生きる」ということがどういうことかがわからず「事実をどう解釈して生きたらいいか」とばかり考えている。

 すなわち、事実の手前、事実の解釈である「理屈」にとどまって、どうしても事実を受け入れる勇気がない者には信心が最後までわからない。「とかく、教の言葉をあなどりて、たかが、こう云う理屈ぞと、手前ですます料簡があるゆえ、ものを狎れ狎れしう思うて、大切なことを何とも思わず仕損ずる」とはそういうことです。仏教を「世渡りの知恵」「心構え」ぐらいに思っている人には耳が痛いだろう。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-10 21:47 | 香樹院語録を読む | Comments(0)