2017年 06月 08日 ( 1 )

  一八、悪道の恐しさを聞いても、
  其のような悪道へ沈む身とは思われねども、
  いかなる気強き者でも。
  罪は造って仕舞うて隠すに隠されず、
  逃ぐるには逃げられず、
  さあ縄かけると云われたら、
  うろたえて泣くより外はあるまい。

  (香山院師曰く。
  それよりも百千倍あはれな無量劫の牢獄へ、
  今しばられて行く身の上。)

  其ものを助けようの御本願。

  (香樹院語録)

 意識とは心の表層であり、意識は心の中になにがあるかをまったく知らない。心には無量劫より蓄積された無量無辺の業の蓄積があって、われらは業に縛られていながら業に縛られている事実を知らない。宿業を照らす智慧の光がないので、これを無明といいます。あたかもそれは月の光すらない夜道を手探りで歩いていくようなもので、どこへ行くのかも、いまどこを歩いているかも知らない、まったくの闇です。一生涯、迷妄の夜道を歩いて信仰の日が開けるのを見ることもなく、闇からまた闇へと渡って行く。そのことを臨終に知るのです。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」



by zenkyu3 | 2017-06-08 06:36 | 香樹院語録を読む | Comments(0)