2017年 04月 27日 ( 1 )

弥陀をたのむとは

  一五六、たのむものを助くるとの仰せを聞いて、
  左様ならば私はたのみますさかい、
  御助け下されませの心ではない。
  たのむと云うは、不思議の仏智を信ずること故に、
  かかるものを御たすけぞと深く信ずることじゃ。
  各々は、これが深くたのむのじゃの、
  是れが緊とすがるのじゃのと、
  訳きくことばかりが細かな道理と思えども、
  それよりも内心の味いを透した心味を云うのが、
  一番に細かな道理じゃ程に。

  (香樹院語録)  
 

 見たことも聞いたことも触れたこともないのに「信ずる」「たのむ」などということはない。われらのように疑い深い者が知らないものを信ずるなんてことは絶対にない。「たのむ」のはすでに救われたからたのむのだし「信ずる」のは信じられていたと知ったから信じるのです。この反対ではない。信じたらわかるのではなく、わかったから信じる。

 なにがわかったか。どうわかったか。「救われない」とわかった。「救われない」と仏さまが教えてくださったからわかった。だから、救われないとわかったことが救われたこと。救われないと教えて救うのが仏さまのお慈悲というものです。自分でわかろうとしてわからないのが自力、心を素直に教えていただくのが他力。だから「聞く」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-27 12:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)