2017年 04月 12日 ( 1 )

心が何と思うとも

  一〇六、ある人、今にも死のうと思えば、
  もう一度御目にかかりてと云うような、心で御座りますと述ぶれば、仰せに。
  それが肝要の所で、それが疑いの根じゃ。それで、よく聞けよく聞けと云う事じゃ。
  能く能く聞くと、今迄は何を疑うて居りましたやらと、如来様に御縋り申す心が信心決定じゃ。
  是一つさえ訳が分ったら、日本国がひっくり返っても、浄土参りに間違いはない。
  世上で信心安心の訳聞いて、此処でこう聞いた彼処でああ聞いたが、
  どちらが真実やらと云う様な詮索沙汰をやめにして、
  誰がどう云うとも、心が何と思うとも、
  阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃものをと思えば、
  こんなたしかな事はないではないか。

  (香樹院語録)   

 この法語には「心が何と思うとも」というタイトルがついています。われらの心は肉体に附属している心なので心に従うということは肉体の欲求に従うということです。肉欲に縛られてわれらはありとあらゆる苦悩を受ける。このことを知らずに苦しんでいる。そのような姿を仏教は「無明」と教えている。「心が何と思うとも」心の相手をしない。心に振り回されない。心の主人となって奴隷にならない。心を離れれば離れるほど苦しみはなくなっていく。これが仏教です。

 自分の心を一度離れる経験を「即得往生」といい、自分の心に支配されない生活を「往生」といいます。「阿弥陀様の助くる助くるの御呼声を、頂いた身じゃもの」、なにから助けていただいたか。自分の心から助けていただいた。長い間だまされ続けてきた自分の心から助けていただいた。今まで心にどれ程だまされてきたか。「心が何と思うとも」もう心の相手にはならない。信仰とは、仏のお心と自分の心と、どちらを信じますかという話です。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-12 21:53 | 香樹院語録を読む | Comments(0)