2017年 03月 21日 ( 1 )

観念成就のさとり

e0361146_09203222.jpg  十方無量の諸仏の
  証誠護念のみことにて
  自力の大菩提心の
  かなわぬほどはしりぬべし

  三恒河沙の諸仏の
  出世のみもとにありしとき
  大菩提心おこせども
  自力かなわで流転せり

  (正像末和讃)

  煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
  この条、もってのほかのことにそうろう。
  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
  六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
  これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
  来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。

  (歎異抄・第15章)

 自力の人は「観念成就のさとり」だから自分の頭で悟れると思っている。邪見驕慢だから自分の頭でわかりたい。自我意識が尖っているから自分が一番賢いと思っている。こういうのを自力というのでしょう。自力の人は歎異抄は読むが念仏はしない。頭でわかりたい人は一文不知にはなれない。学問して悟りが開けるなら学者はみな生き仏だ。しかしそうはならない。

 他力は悟らないのではない。頭でわかったようなものはやがて壊れてわからなくなる。それは悟りではないからだ。他力は仏から悟りの智慧をいただく。智慧が開く悟りの境地を仏の方から開いてくださる。自分の頭でこしらえた方便化土ではない。仏智不思議、人智を超えたところから届く悟りで、自分の頭で考えた悟りではないから「如来よりたまわりたる信心」(歎異抄・後序)という。


 人間の心を超えた高次の心に出会う体験を他力という。自分で開く悟りではないから、悟りは如来回向の信心の中に含まれている。悟らなくても悟りの境地(真実報土)を回向してくださる。それを「往生」という。「来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり」とあるように、煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできないが、煩悩具足の身をもって今生に「往生」(信心決定)することはできる。煩悩具足の身のまま悟りの境地に生まれさせようというのが弥陀の本願です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-21 06:15 | 歎異抄の領解 | Comments(0)