2017年 02月 26日 ( 1 )

根本の疑い

e0361146_23310248.jpg  九、疑いと云うものに、枝末と根本との二つあり。
  枝末の疑いと云うものは、親子夫婦兄弟などの中に、
  毎日毎日起りて、本に思わぬ事じゃ。
  根本の疑いというは、さっぱりとあかるうなりて、
  胸の中に、どうも虚言じゃと思われぬ様になられぬことじゃ。
  たとえば、其方の子は狐じゃほどに、油断をするなと人が云うたとき、
  どう思うても我が産み落して育てた子なれば、狐じゃとは思われぬ。
  これ人の言葉に転ぜられぬ也。

  (香樹院語録)


 たとえば、赤ちゃんは自分の境遇になんの疑いもない。境遇をありのままに受け入れてなんの疑いもない。そんな心の状態を「無我」という。境遇をありのままに受け入れる心は明るい。境遇にはもともとよいも悪いもない。あなたが好き嫌いを言うものだから境遇に善し悪しができてしまう。こんな境遇でいいのだろうかと境遇を疑う。疑う心は暗い。疑う心は境遇を受け入れない。境遇に問題があると思い込み、自分の心に問題があるとは思わない。これが人生を苦しくする。

 境遇は縁によって与えられてくるものでわれらは境遇を選ぶことはできない。境遇を変えることもできない。与えられた境遇に満足して喜んで生きられれば、これを「疑い」がないという。「どうして?」の疑いの根っこは執着である。執着するから暗い。仏のお心は執着がない。信心とは疑いのない明るい心、仏のお心をいただく。仏のお心をいただいた証拠には、心が明るくなる。与えられた境遇に満足する。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-02-26 22:19 | 香樹院語録を読む | Comments(0)