仏法は、聴聞にきわまることなり

  一 いたりてかたきは、石なり。
  至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。
  「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。
  いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
  御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
  ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書193条)

 試みに現代語訳。蓮如上人の言葉。最も硬いものは石である。その硬い石を最も軟らかい水が穴をあける。「心の源まで深く深く降りて行けば仏に遇う」という古い言葉がある。いかに仏の声が聞こえずとも、岩を打つ一滴のしずくのように、ただひたすら生涯かけて聴聞すれば、いつかきっと、あなたの心に仏のお心が届くのである。だから、命懸けで聴聞しなさいと、蓮如上人は言われました。


 生涯、聴聞している。真実に引かれて聴聞しているだけだから聴聞することに理由は求めなくてよい。信心を得ていようと得ていまいと、聴聞することが最も人らしい生き方ではないか。我を超えた大きな心に、これでよいですかと、問い続ける。仏のお心がわからずとも仏はあなたのことをよく知っている。信心は宿善の開発で、信心は与えられてくるものだから、あなたが求めたから得られるという理由はない。聴聞する。お念仏する。みな仏のお育てであるから、信を得ようと得まいと、真実に引かれるままに、お念仏もし、聴聞もする。


 南無阿弥陀仏


Commented by 畑のかえる at 2018-01-15 04:12 x
“信を得ようと得まいと、真実に引かれるままに、お念仏もし、聴聞もする”
この一句、いいですね。今日もありがとうございました。
Commented by zenkyu3 at 2018-01-15 15:52
> 畑のかえるさん
大きな心に導かれて、ここまで歩んでまいりました。なんの取り柄もない人生ですが一つの人生です。振り返ると恥ずかしいことばかりで悲しくなります。南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-01-14 06:02 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(2)