念仏には無義をもって義とす(3)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章) 
 

  義とは、はからいである。
  上の義は人間のはからい、凡夫のはからい。
  下の方の義は、字は同じであるが、
  これは仏智、如来の御はからいである。

  (曽我量深著「歎異抄聴記」より)


 「義」を量深師のように領解すると、「義なきを義とす」の意味は「凡夫のはからいがないことが如来の御はからいである」となり、文意がさらに深くなる。「凡夫のはからい」が「如来の御はからい」に転じられることがはっきりする読み方だからです。「凡夫のはからい」がなくなるわけではなく、「凡夫のはからい」はそのままに、「凡夫の心」から「仏の心」へと主体が転ずる。主体は転じても「凡夫のはからい」以外にわれらに生活はないわけだから、「凡夫のはからい」はそのままでなにも問題はない。さて、われらは生まれたときに役回りをもらった。もらった以上、これしかない役回りを演じ切るだけである。さぁ、役回りを演じ終えて涅槃に帰ろう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-13 06:18 | 歎異抄を読む | Comments(0)