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善及訳『自然法爾章』

自然法爾のこと

 一 信心獲得の獲得について。獲得の獲は菩薩の位で悟るので獲といい、獲得の得は果位に至って悟るので得といいます。弥勒に等しいと称えられる凡夫のさとりは如来回向の信心で、信心の中身は仏のさとりと因果同質のさとりなので信心獲得といいます。また、名号について。南無阿弥陀仏という仏のお名前は因位におけるさとりのお名前を名とお呼びし、果位におけるさとりのお名前を号とお呼びします。因位の信心をいただいた凡夫の姿が南無阿弥陀仏なら凡夫の果位に至っての姿も南無阿弥陀仏。因位も果位も因果同質のさとりなので名号といいます。さて、果位の仏のさとりが因位のわたしに届くことを自然法爾といいますが、その自然法爾ということについて。

 二 自然法爾ということ。まず、自然について。自然の自は自ずからという意味の言葉です。わたしの意志に関係なく、あちら側から働いてくるお力がある。自ずからとはそういう意味が含まれている。次に、自然の然もまた、自ずからそうなるという意味の言葉で、自ずからそうなるというのは、こちら側、わたしの意志ではなく、あちら側、つまり如来のお誓いだから、自ずからそうなるというのです。如来のお誓いはわたしの意志に関係なく働くから、そのことを自然というのです。

 三 次いで、法爾について。法爾というは如来のお誓いのことだから、自ずから働くので法爾といいます。法爾は如来のお誓いだから、わたしの意志とはまったく関係なく働く。わたしの意志とはまったく関係がなく働くから、わたしの努力はなにもいらない。すでに法のお力が働いてくださっていて、わたしを救う働きを現してくださったので、わたしはもうなにもすることがない。だから、わたしはなにもしない。このゆえに「他力には義なきを義とす」(法然上人のお言葉)と教えていただいております。

 四 さて、改めて自然について。自然とは元々、自ずからそのようになるという意味の言葉です。弥陀仏のお誓いとは、わたしの努力をすべて捨てて、南無阿弥陀仏と頼んだとき、その者をわが心の中に迎え入れようとのお約束ですから、頼んだ者は必ず救われるのです。救われた証拠には、善悪、好き嫌いを言う心がなくなります。わたしの意志に関係なく、弥陀仏のお誓いは必ず成就してわたしを救うので、自ずからそうなるという意味で、弥陀仏のお誓いを自然というと教えていただいております。

 五 弥陀仏のお誓いの内容はなにかと言えば、わたしをこの上ない仏にしようとお約束されたことです。この上ない仏とは目に見えない救いの働きのことをいいます。働きは目に見えない。目に見えないから自ずから然りです。形あるものは物であり心ではない。さとりの智慧は目に見えない。見えないから救いの働きという。形なくして働く救いの働きを、それと教えるために阿弥陀仏のお姿になって現れてくださった。そのお姿を拝して、救われよと、そうお聞きしております。

 六 救いの働きである弥陀仏のお誓いがすでにわたしにかけられている。法爾に自然に働くという道理の道筋がのみ込めたら、あとは、弥陀仏のお誓いを信じるばかりです。汝を救うというお約束なのだから、われらには信じてお任せする一事しかない。それが「義なきを義とす」ということです。信じて念仏するだけで仏になる。こんな不思議なことはありません。それで仏智の不思議と申し上げます。愚禿親鸞八十六歳。

 七 この文書は、正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞聖人の御歳八十六歳のおり、関東から上京した弟子の顕智が、善法坊僧都御坊、三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点についてお尋ねし、それについてのお答えを、顕智が聞き書きしたものです。(以上、善及訳)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-11-25 13:26 | 仏からの道・資料集