『自然法爾章』現代語訳の試み(3)

  *4 自然というは、もとよりしからしむということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
  むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、
  自然とはもうすぞとききて候う。

  *5 ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。
  無上仏ともうすはかたちもなくまします。
  かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。
  かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。
  かたちもましまさぬようをしらせんとて、
  はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。
  みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。

  (末燈鈔・第五通)

 さて、改めて自然について。自然とは元々、自ずからそのようになるという意味の言葉です。弥陀仏のお誓いとは、わたしの努力をすべて捨てて、南無阿弥陀仏と頼んだとき、その者をわが心の中に迎え入れようとのお約束ですから、頼んだ者は必ず救われるのです。救われた証拠には、善悪、好き嫌いを言う心がなくなります。わたしの意志に関係なく、弥陀仏のお誓いは必ず成就してわたしを救うので、自ずからそうなるという意味で、弥陀仏のお誓いを自然というと教えていただいております。

 弥陀仏のお誓いの内容はなにかと言えば、わたしをこの上ない仏にしようとお約束されたことです。この上ない仏とは目に見えない救いの働きのことをいいます。働きは目に見えない。目に見えないから自ずから然りです。形あるものは物であり心ではない。さとりの智慧は目に見えない。見えないから救いの働きという。形なくして働く救いの働きを、それと教えるために阿弥陀仏のお姿になって現れてくださった。そのお姿を拝して、救われよと、そうお聞きしております。(全休訳)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-06 06:15 | 御消息集のこころ | Comments(0)