『自然法爾章』の大意

  *4 自然というは、もとよりしからしむということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
  むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、
  自然とはもうすぞとききて候う。

  *5 ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。
  無上仏ともうすはかたちもなくまします。
  かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。
  かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。
  かたちもましまさぬようをしらせんとて、
  はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。
  みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。


  (末燈鈔・第五通)

 わたしの意志に関係なく働くから「自然」という。わたしが求めなくても、知らなくても、常にわたしを「無上仏」にしようとする働きが働いている。今、現に働いている働きに気づく一瞬を「信の一念」という。「無上仏」とは「涅槃」のことで、妄念妄想が尽きること、または尽きた処、あるいは、その境地のことである。

 どんな妄念妄想も消える。消えるから妄念妄想という。妄念妄想を実体があるかに信じて執着するから妄念妄想に苦しめられる。しかし、どんな妄念妄想も消える。仏教が教えるのは“これだけ”である。このこと、すなわち、どんな妄念妄想も消える、涅槃する。この一事を教えるのが仏教である。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-03 06:23 | 御消息集のこころ | Comments(0)