はかろうて念仏もうすは

  一 「「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 
  不回向となづけてぞ 自力の称念きらわるる」(正像末和讃)というは、
  弥陀のかたより、たのむこころも、とうとやありがたやと念仏もうすこころも、
  みなあたえたまうゆえに、とやせんかくやせんと、はかろうて念仏もうすは、
  自力なれば、きらうなり」と、おおせそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書35条)

 すべてが与えられている。求めるものがないと知ることが「涅槃」(極楽)である。求めないから「無我」である。仏からすれば「回向」といい、凡夫からすれば「不回向」という。すべてとはなにか。"これ"と示すことができないから"すべて"である。いま現に起きていることが"すべて"であり、過不足ない"すべて"である。過不足がないから「満足」という。

 仏からすれば過不足がない。しかし、凡夫からすれば過不足ない"すべて"が気に入らなくて、過不足ないところに不満を言う。これがわれらの「愚痴」である。愚痴を言えばなにか偉い者にでもなったつもりだが、人生に求め自分に求めて、ただ忙しく騒ぎ回ってみたものの、終わってみれば一夜の夢である。夢とも知らずにただ騒いで終わるだけの人生である。頭の中のわたしの思いを事実と思うから夢である。

 南無阿弥陀仏


Commented by kk at 2017-11-05 04:27 x
頭の世界と現実の世界、二つの世界に同時に生きているんだな、と思います。どうか此処にいれるようにして下さい。出ていきそうになったら引き止めて下さい。何処にいても連れ戻して下さい。そんなことを思います。
Commented by zenkyu3 at 2017-11-05 10:03
> kkさん
「此処」から出ていきたくない。どれほど苦しくても「此処」でがんばってしまう。それを「心に執着する」というのでしょう。その執着も臨終の前には手放さなくてはならなくなる。出て行くことのできないわたしたちだから、仏の方から来てくださる。それゆえ「摂取不捨」といいます。事実に抗うことができないことをはっきり教えてくれるのが「死の事実」です。死の事実を心から受け入れると心が死ぬ。仏に遇うと心が死ぬ。それを「往生」というのです。全休
by zenkyu3 | 2017-11-03 06:28 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(2)