歎異抄・第五章の読み方

  一 親鸞は父母の孝養のためとて、
  一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
  そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第5章)

 自ら「親鸞」と名告りをあげるはよくよく大切なことを言おうとする。なんと仰せか。「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と。どういうことか。法然以前の旧仏教は鎮護国家、死者儀礼としての宗教であったが、法然以後は「個の救済」としての新仏教にはっきりと生まれ変わった。死者のために念仏は称えない。念仏は救われたことの喜びである。

 そういう意味で、この章は「死者儀礼」としての旧仏教を否定し「個の救済」としての新仏教をはっきりさせた親鸞の宗教宣言といえる。「某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」(改邪鈔)という言葉も死者儀礼を否定する親鸞の態度を示している。「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」(歎異抄・第12章)。これだけが親鸞の仏教である。

 南無阿弥陀仏


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Commented by zenkyu3 at 2017-11-07 07:16
> ルネッサンスさん
生だけが命ではない。死もまた命であろうか。われらは生しか知らないが、生しか知らないということは本当は生も知らないのではないか。大海の上に漂う藻くずのような命でしかない。なにも知らないという処に立って三歳の子のように本願のお心を仰ぐばかりです。ご母堂さまは仏さまがよいようにしてくださいます。全休
Commented at 2017-11-07 21:51 x
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Commented by zenkyu3 at 2017-11-08 09:25
> ルネッサンスさん
生老病死を「四苦」といいます。思い通りにならないから「苦」といいます。思い通りにしようとするから、すべてが「苦」になる。思うも苦、行うも苦、結果も苦。われらは終始一貫、じたばたして生き、もがきながら死んで行くが、終わってみれば「生老病死」の四苦を出ない。生老病死の四苦の上に、人生は人それぞれの心の中にある。誰もその心の中を知ることはできない。一つ一つの心の中に仏さまがおられるから、仏さまだけに心の中を見せることができる。子は親に見守られていると知るだけで生きて行くことができる。この苦海を渡っていかれる。全休
Commented at 2017-11-08 09:48
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by zenkyu3 | 2017-11-07 06:30 | 歎異抄を読む | Comments(5)