うれしさに念仏もうすばかりなり

  一 仰せに、「弥陀をたのみて御たすけを決定して、
  御たすけのありがたさよとよろこぶこころあれば、
  そのうれしさに念仏もうすばかりなり。
  すなわち仏恩報謝なり。」

  (蓮如上人御一代記聞書14条)

 念仏とはなにか。これ以上ないほど簡略にまとめられている。さらに縮めれば「たのむ」だけでしょう。われらに出来るのは「たのむ」だけ。あとは仏がよいようにしてくれる。その証拠に仏はたのんだ人に「よろこぶこころ」を与えてくれる。心は目に見えない。仏法を広めるために仏は喜んだ人に「念仏」を称えさせる。念仏を見て、見た人がまた念仏を称える。こうして念仏の歴史ができてきた。

 われらにできるのは「たのむ」ことだけ。仏はわれをたのめと声をからしておられる。「たのむ」は崖をよじ登る難行ではない。崖から飛び降りる易行だ。飛び降りるのは簡単だが、死ぬのが恐い。下で仏が呼んでいる。「ここへ落ちてこい」と。努力はいらない。信じて身を捨てるだけだ。しかし「たのむ」ところ、崖っぷちまでたどり着く人がいない。自分にたっぷりと未練があるからだ。

 南無阿弥陀仏


Commented by ナナシ at 2017-10-26 12:40 x
たのむ、だけなのに、自分にはたのむ心すらありません。

そんなどうにもならない者のために、たのむ機までご成就して下さったのが、お念佛であったとは知りませんでした。

ここへ落ちてこい、そのまま助けるの喚び声が南無阿弥陀佛。

今はただ念佛を申し、耳に聞くばかりであります。

南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-10-26 20:53
> ナナシさん
竹内先生は蓮如をほとんど読まれない。曽我量深師もあまり蓮如を読まれない。だから、蓮如を読むようになったのは最近です。蓮如は生涯、指導者だったから、どう教えるか、どう組織を維持するかがテーマで、自己の内面は決して語らない。誰も聞いたことがない。だから、大谷派は内面的な深みのある親鸞の方が好きなのでしょうね。ただ、教化の言葉の裏に蓮如の信心をうかがうことはできるように思います。全休
by zenkyu3 | 2017-10-26 06:42 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(2)