かならず回心すべしということ

(異義条々 その六)

  一 信心の行者、自然に、
  はらをもたて、
  あしざまなることをもおかし、
  同朋同侶にもあいて口論をもしては、
  かならず回心すべしということ。
  この条、断悪修善のここちか。

  (歎異抄・第16章)

 異義者はなんと言っているか。信心を得たほどの人(信心の行者)なら、身口意の三業で造る悪ごとに自ずと回心懺悔されなくてはならない。それが(親鸞の教える)「自然」ということだと、そう主張するというのです。「はらをもたて」が意業、「あしざまなることをもおかし」が身業、「同朋同侶にもあいて口論をもして」が口業に配置されている。それに対して唯円は、「回心」と「自然」の二つについて、その間違いを糺している。まずは「回心」について。

 一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。(同・第16章)次いで「自然」について。
 
 信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。(同・第16章)

 わたしの意志に関係なく働くから「他力」といいます。どんな働きか。心が心から離れるようにする働きです。われらの普段の心は自分の心を主人と崇め、召使のように従順だ。だから、自分の心と一緒になって、自分の心が造る六道をへ巡り、あらゆる苦悩を舐めさせられる。この苦悩を逃れる方法を「仏道」といい、苦悩のない処を「涅槃」(浄土)という。「他力」(仏)を初めて自覚する経験を「信心獲得」(初歓喜地)といい、働きを自覚するので、後はなにもしなくても仏が涅槃へと導いてくださるのがわかる。それで「自然(法爾)」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-11 12:24 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)