一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし

(異義条々 その四)

  一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。
  この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、
  命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、
  一念もうせば八十億劫のつみを滅し、
  十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。
  これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、
  一念十念といえるか、滅罪の利益なり。
  いまだわれらが信ずるところにおよばず。

  (歎異抄・第14章)

 平安時代の浄土信仰が「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」だったのでしょう。罪滅ぼしをして仏にしていただく。いわゆる現代の「葬式仏教」がそうであるように、平安時代の浄土信仰はただの宗教儀式でしかなかった。それを「個の救済」の宗教にまで高めたのが法然であり親鸞であったのでしょう。だから、唯円は「死後の浄土」を願うことでしかない「臨終正念」を「いまだわれらが信ずるところにおよばず」と批判するのです。

 「臨終正念」を願う人は「死後」がどうしても心配になるのでしょう。「浄土」という特別な世界を考えているから、なんとしてもそこに生まれたい。生まれない可能性だってある。だから、どうしても不安になる。では、信心の人は「死後」が不安ではないのか。親鸞は信心をいただいた人の心境をこう表現している。「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」(正信偈)と。

 これは信心の智慧が開く(雲霧の下、明らかにして闇きことなき)覚りの境地です。「摂取の心光、常に照護したまう」。智慧の光に照らされて煩悩(というわが身の事実)が見えた。見えたことが煩悩を離れたことです。見えることが光の中にいることです。すでに浄土の中(涅槃の境地)にいる。だから、仏に等しい。便同弥勒の菩薩と仏を隔てるのは少しばかりの「貪愛・瞋憎の雲霧」でしかない。よって、命終すれば、たちまち仏になる。これが信心が開く覚りの境地(涅槃)です。すでに浄土の中であるから、往生しそこねるなんてことはない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-10-08 06:22 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)