誓願不思議と名号不思議と

(異義条々 その一)

  一 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、
  「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、
  また名号不思議を信ずるか」と、いいおどろかして、
  ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、
  ひとのこころをまどわすこと、
  この条、かえすがえすもこころをとどめて、
  おもいわくべきことなり。

  (歎異抄・第11章)

 唯円は念仏グループの指導者であったでしょうから、それが具体的に誰だったかは別にして、いずれは指導者になるであろう後進のために「歎異抄」を書いている。他の念仏グループの指導者たちが唱えている八つの「異義」を取り上げ批判するのが執筆の動機です。当然かもしれないが、最初に取り上げた異義は「念仏」に関するものです。内容は誓願と名号、信と行を二つに分けて、どちらを信じて念仏するのがいいのかと「一文不通のともがら」に迫る異義者の態度を批判しています。

 異義者はおそらく「信がなければ念仏しても意味がない」と言いたいに違いない。理屈好きな人はたいてい念仏が嫌いだから、信心があれば念仏はいらないと思っている。しかし、そのように主張することが異義者に「信心がない」ことを暴露してしまっている。そもそも、信心とは真心であり、信の一念に仏のお心をいただく。仏のお心をいただいた喜びが念仏になるのだから、信には必ず念仏が伴う。念仏のない信はない。

 また、念仏は念仏させようの仏のお心の現れであるから、信がなくとも、口を突いて念仏が出てくるのです。信なくして出てくる念仏は気づけよの仏のおさとしです。だから、信と行は二つで一つ、どちらか、ではない。異義者は心素直に念仏して仏の心につながろとしている御同行の念仏が仏のお働きであることを知らない。念仏の指導者たらんとするなら、まず自らが信を得なくてはならないでしょう。

 南無阿弥陀仏


Commented by kk at 2017-10-04 04:37 x
意義者がなぜ間違っているのか、ではなくて間違えようとする内面の動機を教えてもらうことは、私の内面を教えてもらっていることだと思います。ありがとうございます。
Commented by zenkyu3 at 2017-10-04 08:01
> kkさん
信仰は目に見えない不思議の働きを信じることです。見えない不思議は心でつながることが出来る。電波は見えないが受信機で周波数を合わすと声が聞こえる。仏の声は内から聞こえる。内に心の耳を澄まして心の周波数を合わす。聞こえない仏の声が聞こえてくる。これが見えない不思議の働きを信じることです。なにが大事か。大事なもののために使う人生でありたい。全休
by zenkyu3 | 2017-10-03 14:46 | 歎異抄の読み方 | Comments(2)