綾五郎の臨終

  一七、綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
  私、生涯御法を聞き、此頃は日夜に六万遍の念仏を申して日課にいたし、
  本願を心にかけ居り候えども、信心なくば、
  空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、誠に歎かわしく候、と。

  予、是れに答えて云う。
  念仏を多く申して仏に回向するさえ、仏しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。
  まして念仏申し本願に心をかけ、そのうえ信の得られぬ事を悲んで、加被をまつ。
  是れ辺地の往生疑いなしと。 (以下略)

  (香樹院語録) 

 信を得たと信を得ぬとの区別は仏さまにはおありにはならない。仏さまは区別されているのではないかとの僻み心が取れぬゆえの「辺地の往生」ではないか。綾五郎、「私、生涯御法を聞き」と言うがすでに驕慢心である。それゆえ「日夜に六万遍の念仏」を仏さまに押し付ける。仏さまからすればすでに救ってある。われらからすれば救われてないと思う。無条件の救いに「日夜に六万遍の念仏」の条件をつけるのが疑いの心である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


Commented by ルネッサンス at 2017-09-20 20:47 x
歎異抄を勉強する会があってからもう5年も経ちます、テキストの「歎異抄略註」の第一章のところに ”すでに救われているということ” と私がメモ書きしています、おそらく全休様がそう言われたのでしょう。 
しかし私の念仏はこの綾五郎に似ているような感じで、これだけ念仏しているのだから救ってくれと私もそう思っているのです。
まだ救われていることに疑いがあります。
南無阿弥陀仏

Commented by zenkyu3 at 2017-09-20 21:44
> ルネッサンスさん
雲に月は隠れていても月があることを疑ってはならないでしょう。信心は感応道交といいますから、仏さまのお心とつながるように、仏さまのお心を感じるように聴聞することが大切です。心は形がないから心を感得した人が言葉で心を伝えてきました。水は器に入れて運ばれる。器は水を容れるだけの用ですから、器に気を取られてはいけないでしょう。コップを渡されたら中の水を飲むのです。全休
by zenkyu3 | 2017-09-20 14:29 | 香樹院語録を読む | Comments(2)