法然上人「他力には義なきを義とす」

  また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、

  選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。
  如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人のおおせごとにてありき。


  義ということは、はからうことばなり。
  行者のはからいは自力なれば、義というなり。
  他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。

  しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。
  凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。
  また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。
  自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。

  (親鸞聖人血脈文集・第一通)

 前回まで七回にわたり『自然法爾章』を読んでまいりましたが、法然上人の「義なきを義とする」は訳さずそのままにしてきました。意味が深くて現代語にしずらいからです。「義なきを義とす」という言葉は歎異抄・第十章や正像末和讃にも見え、晩年のご消息にはたびたび出てまいります。他力を端的に説明するのにふさわしい言葉なのでしょう。そこで少しばかり「義なきを義とす」について。


 親鸞は「義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり」と述べています。自力とは自分の心です。自分の心に価値を置く人が「自力の人」です。自力の人の「はからい」(努力)とは、自分の心の善悪にこだわって、自分の心をよくしようと努力することです。これが前の「義」の意味です。後の「義」は「本義」という意味です。よって「義なきを義とす」の意味は、自分の心をよくしようとする努力(心=我執)を捨てること、これを本義とするのが他力である、となります。

 南無阿弥陀仏


Commented by 畑のかえる at 2017-12-11 05:40 x
ご無沙汰しております。全休さんのブログがこうしてあることは安らぎです。何かあってもここにくれば落ち着きます。
念仏には無義をもって義とす・・・あらためて、自分のブログの「全休さんの訳による歎異抄」に目を通しました。わたしが知ったかぶりしているのがうかがえますが、またそれなりの真剣さも見えてきます。
わたしにとっては、全休さんとmikuちゃんが善智識さま、御同行さまです。ほんとうにありがとうございます。
Commented by zenkyu3 at 2017-12-11 12:21
> 畑のかえるさん
かえるさんのように長い間、読んでくださっている方が多いのでしょう。15年はそれなりの年月ですが、仏さまに促されるように書いてきたのですね。これからも、きっと、そうなのでしょう。法を聞く喜びが人にも伝わるとよいのですが。気がついたことがありましたら、またコメントください。全休
by zenkyu3 | 2017-12-09 06:09 | 御消息集のこころ | Comments(2)