南無というは帰命なり

  一 仰せに、「南無というは帰命なり。
  帰命というは、弥陀を一念たのみまいらするこころなり。
  また、発願回向というは、たのむ機に、
  やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。
  その体すなわち南無阿弥陀仏なり」と、仰せ候いき。

  (蓮如上人御一代記聞書2条)

 南無「自分の心」だった心が南無「阿弥陀仏」へと回心する。自分の心と一体だった心が仏にすがって一瞬、自分の心を離れる不思議体験を得る。これが「弥陀を一念たのみまいらする」という宗教的な決断の内容です。また、信の一念に「たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり」。宗教的体験によって得られる「功徳」はどのようなものかというと「自分の心」から離れられた自由です。苦しみは自分の心への執着から出てきた。信の一念に、苦しみの原因である「自分の心」をまるごと離れて、自分の心から救われる。この功徳の味わいが一生を貫く。決して忘れないだけでなく、どこまでも深まっていく。

 南無阿弥陀仏


Commented by k-yoko2525 at 2017-08-15 13:15
+(⑉꒦ິ^꒦ິ⑉)♡kirinn+
一瞬が深まっていく…。
生かされているんだなぁ…と。
ありがとうございます。
Commented by zenkyu3 at 2017-08-15 16:13
> k-yoko2525さん
仏を疑っている。考えて疑いが晴れるなら仏智不思議といわない。分からなくても頼るしかなくなる。それをお慈悲といいます。人の心は仏にはならない。仏からいただいた仏心が仏になるのです。仏からいただいた心で仏を頼むから機法一体といいます。疑いは仏が晴らしてくださる。全休
Commented by ナナシ at 2017-08-21 12:35 x
疑いは仏が晴らしてくださる、のお言葉有難うございます。
疑おうにも疑えない、でも、どう考えても不可思議である。ずっとこんなことを思っております。憑む力も任せる力もない者を我が名を称えるばかりで助けると仰せ下さるとは本当にご親切な方だと思います。南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-08-21 20:20
> ナナシさん
念仏など称えそうにない者が念仏を称えている。こんな不思議なことはない。よくよくのお慈悲である。不思議の上に不思議はないわけだから、これですべてが決着している。決着の上に決着を求めることはいらない。本願の船の上から移る景色を眺めていればよい。全休
by zenkyu3 | 2017-08-15 06:00 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(4)