返事

  一六〇、一字の竪横しらぬものを抑えて、
  そこもとは学者じゃと云われて返事が出来るか。
  喰いかねるような貧乏人を抑えて、
  そこもとは大福長者じゃといわれて返事がなるか。
  爾るに、真の仏弟子じゃ、正定聚の菩薩じゃと云われても、
  この私で御座りますと返事の出来るは、これ貰うた印也。
  よくよくの御慈悲と思うべき也。

  (香樹院語録)    

 信心は「いただく」という。持っていないから「いただく」という。持っていれば「いただく」必要がない。持ったことがないからどんなものかはわからない。食べたことがないのに「どんな味か」と聞かれても返事の仕様がない。答えたら嘘つきだ。信心のことはとにもかくにも「いただいた」上での話である。誰がくださるか。仏さまである。仏さまがくださるから「廻向」という。

 いただいたか、いただいてないか、これははっきりしている。いただいたのに「いただいてません」とは言えない。いただいてないのに「いただきました」と言えば嘘つきである。仏さまはなにをくださるかといえば「智慧」をくださる。われらは「智慧」をいただく。いただいたときに「くださったお方」のことがわかる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-08-05 21:01 | 香樹院語録を読む | Comments(0)