「仏法には無我」と、仰せられ候う

  一 「仏法には無我」と、仰せられ候う。
  「われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。
  われはわろし、とおもう人、なし。
  これ、聖人の御罰なり」と、御詞候う。
  他力の御すすめにて候う。
  ゆめゆめ、「われ」ということはあるまじく候う。
  「無我」と云うこと、前住上人(実如)も、
  度々、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書81条)

 「無我」とは「われ」がない。執着するような「われ」などない。これがわかることが仏法である。自分の心のことを「われ」と思う。これが根本無明で、自分の心を「われ」と思って執着する。だから「われはわろし、とおもう人、なし」。自分の心を生きる価値、生きる意味、生きる基準にしている。これが我執ということで、自分の心にしがみついている。

 自分の心のいいなりになって生きている。南無「阿弥陀仏」ではなく、南無「自分の心」だ。仏より自分の心が大切だ。「これ、聖人の御罰なり」。仏教徒とは言えない。本当の「われ」を阿弥陀仏という。本当の「われ」が煩悩の底から呼びかけて、本当の「われ」に今、目覚めた。本当の「われ」に目覚め、本当の「われ」を取り戻すから、これを往生成仏という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-08-02 15:50 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)