山が見える

  七四、船に乗って、向いの岸が近づけば、
  さあ、向いの山が見えたと云うことは、
  十が七八仕おおせたことじゃ。
  各も生死の大海はてのないのに、
  我が疑いさえ見えたら、
  もう仕おおせたものじゃ。
  もう一山ここで越さにやならぬ。

  (香樹院語録)    


 「船に乗って」とは信心をいただいた。「向いの岸」とは彼岸、涅槃の境地のことです。煩悩具足の凡夫は仏ではないが如来回向によって涅槃の一分を経験させていただくことができる。経験させていただいたからこそ涅槃の境地(彼岸)が分かり、そこを目指して修行ができる。信の一念にいただいた「向いの岸」に渡る船を「智慧」という。

 智慧は人間の知恵(はからい)を照らす光であるから人間の知恵を超越している。超越していなければ人間の知恵を照らす光にはならない。智慧を得てはからい分別(煩悩)を始めて見せていただいた体験を信の一念というが、信後も最初のうちは自力と他力の間を言ったり来たりする。何年もの間、智慧がまだまだ身につかない。どこか自信がないが、それが信心が深まって行くプロセスであるのは間違いはない。

 信心の深まりとともに「各も生死の大海はてのないのに、我が疑いさえ見えたら」と、智慧とはなにか、仏とはなにか、今一つ不審が晴れずにいたが、「我が疑い」が見えて、自力がなくなる。他力だけになる。仏を疑う訳ではなかったが、最後まで残っていた不審がようやく晴れる。そのことを香樹院師は「我が疑いさえ見えたら、もう仕おおせたものじゃ」と教えて下さっているのです。

 願力自然(智慧)の働きにより、智慧が自由に働いてくる自然法爾の境地に入ったのです。「もう一山ここで越さにやならぬ」の一山を越えたのです。それなので、師いわく「もう仕おおせたものじゃ」と。さて、「山が見える 」と題のあるこの法語は相手がない。これを聞かせた「各も」とは誰であったろうか。というのも、ここまで来る人は稀であろうから。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


by zenkyu3 | 2017-07-26 14:55 | 香樹院語録を読む | Comments(0)