煩悩、眼を障えて見たてまつらず

  源信、広く一代の教を開きて、
  ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
  専雑の執心、浅深を判じて、
  報化二土、正しく弁立せり。

  極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
  我また、かの摂取の中にあれども、
  煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
  大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

  (正信偈・源信讃)

 「我また、かの摂取の中にあれども」とは、身は娑婆にあれども心は摂取の心光の中(浄土)にある。「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」とは、煩悩身についている肉眼では仏を見ることはできない。如来廻向の仏眼で仏を見させていただくのである。「大悲倦きことなく」とは、わたしが憶念しようとしまいと、「常に我を照らしたまう」。常に仏の方から見られている。

 智慧を光に譬えるのは、闇を破って見えないものを見えるようにしてくれるから光というのです。眼がよくて見えるのではない。だから、自分の心が見えたら、それが智慧をいただいたことです。煩悩は煩悩を見ることはできないからです。それを「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」といいます。如来廻向の智慧をいただいて自分の心を見せていただくのです。(この段の間違った解釈を見たので、老婆心ながら。)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-21 07:01 | 教行信証のこころ | Comments(0)