あら恐ろしや、あら嬉しや

  二九五、安政四年十二月三日、
  了信、御枕許にて申し上ぐるよう。

  先年長浜にての御聞かせ、
  あら恐ろしや恐ろしやあら嬉しや嬉しやの思いの起らぬは、
  無宿善じゃとの御意で御座りましたが、
  今私もようよう其処えとどかせて頂きました。
  これは私が罪造りながら知らずにいることを、
  御知らせ下さるることで御座りますか。

  仰せに。そうじゃ。
  凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、
  三塗の業より外に仕事はせず、
  毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ。

  申し上げて曰く。有難う御座ります。
  善知識様の御化導によりまして、
  火の坑の上の綱渡りは、
  私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや、
  かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや、
  国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする。

  (香樹院語録)

 この法語は信心というものがどのようなものか、実にわかりやすい。了信という人、臨終の床にある師に対して、「これは私が罪造りながら知らずにいることを、御知らせ下さるることで御座りますか」と領解を述べれば、香樹院師、言下に「そうじゃ」と認可する。「凡夫と云うものは生れ落ちるから死ぬるまで、三塗の業より外に仕事はせず、毛のさき程も身を知らずに居るが凡夫じゃ」。人はみな自分が誰かがわからずに迷うのであると、まことに単刀直入、仏法の核心に斬り込む。

 自分が誰かを知らないから、欲望や煩悩に簡単に騙される。自分の心に騙されていることにも気づかず一生を終る。これは悲しくも、多くの命の、まぎれもない現実である。よくよく心して聞くがよい。さて、信心は必ず二種深信である。「私が日々の所作と思い知らせて頂き、あら恐ろしや」が機の深信、「かかるありさま見込んでの御呼びかけとは、あら嬉しや」は法の深信、まことにわかりやすいご化導である。信心の人は稀であるから「国に一人郡に一人の仕合せものと喜びまする」と了信は喜んだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」 


Commented by yamano3dan at 2017-07-23 04:45
前ブログから久しくご無沙汰しています。
日暮れて途遠し、信心は深まりませんが、生活だけはできています。
全休さまの発信が今もこうしてなされているので、よりどころがあります。
安心して腰かけにならないようにと思っております。
ありがとうございました。
畑のかえる


Commented by zenkyu3 at 2017-07-23 10:13
> yamano3danさん
畑のかえるさん、こんにちは。畑のかえるさんのブログ、いつも拝見しています。国際環境の激変によって日本という国が大きく変わりつつあるようですね。責任ある人達にはしっかりと舵取りしていただきたいです。全休
Commented by yamano3dan at 2017-07-24 04:09
そうですか、愚ブログお読みいただきまして、ありがとうございます。
仮に全休さんと政治的な見解は異なっていたとしても、全休さんへの、あるいは全休さんブログへの信頼は変わりません。
生きていく上でのよりどころは、信仰しかありませんね。
いつ壊れるかわからない生老病死のわが身が、こうして毎日息をしておられる刻一刻を大切にしようと思います。
なむあみだぶつ。
by zenkyu3 | 2017-07-22 06:26 | 香樹院語録を読む | Comments(3)