歎異抄・第九章の読み方

  念仏もうしそうらえども、
  踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん。

  (歎異抄・第9章)


 著者・唯円には「踊躍歓喜」の信体験があった。だから「踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と訴えることができる。無明に小さな穴が開いて心に智慧の光が差した。最初は法悦の中にある。それから数年、暫くはわかった気になっていられたが、やがて「踊躍歓喜のこころ」がわからなくなる。智慧に慣れ、智慧を私物化するからである。

 親鸞もまた「親鸞もこの不審ありつるに」と言っているから、親鸞も一度はこれを経験した。信心が深まっていくプロセスであり、ここを越えなければならない。どう越えるか。越えさせるのもまた仏のお育てであると気づかされるということです。「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり」。親鸞は弟子の唯円にこう答えた。

 救われない宿業の身との自覚をいただいて、わたしたちは仏のお心の中に生まれさせていただけた。それをも忘れて、信を得たことでなにか偉い者にでもなったように思ってしまっているんですね。わたしは今もそうですよと、このように親鸞は答えた。この経験があるからこそ、さらに深く本願力の手強さに身も心も任せていかれるようになる。このようなことが何度も何度も繰り返されつつ自然法爾の境地に深まっていく。

 南無阿弥陀仏


Commented by ナナシ at 2017-07-20 19:15 x
わたしは今もそうですよのお言葉。有難うございます。
何度も何度も繰り返し、その通りであります。
一念は反復深化、繰り返し巻き返しの相をとっていく、
生活からそんな風に感じます。
南無阿弥陀佛
Commented by zenkyu3 at 2017-07-21 00:31
> ナナシさん
歎異抄・第16章には「往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」とあります。弥陀の御恩を思えば、かしこきおもいが自然に無に転ぜられます。これが念仏です。生きてることが煩悩ですから、命は日々新た、煩悩も日々新たです。だから、命あるかぎり弥陀の救いの働きに終わりはないのです。一発悟ったらすべて決着なんて横着な話ではない。煩悩が終るとき救いの働きもまた終る。これが成仏です。全休
by zenkyu3 | 2017-07-19 06:29 | 歎異抄の領解 | Comments(2)